この3ヶ月弱、記事UPが出来なかった原因の7割は猛暑によるものだ。そして残りの3割は、皆さんの想像通りの部分もあれば、私本人でさえ予測も想像も及ばない部分も含まれていて、ちょっとした精神的衝撃により惚けていた時間もあった。世の中には理屈・常識では説明できない物事や現象が日常的にそこかしこに転がっている、という事に改めて気付かされる(…感傷的になりやすいというのも‘うつ症状’の一つだが)。また同時に回復に手間暇のかかる脳みそ系精神疾患であり、まだまだ休息・療養が必要であるという事にも。
もちろん、このブログは私が自ら望んで始めたモノであり、本来は「日記」という意味を持つ物のはずが長期に渡って書けなくて読者を待たせている状態に多少のストレスも感じてはいる。だがやはり数ヶ月が経ちブログも回数を重ねて来ると、やりがいや楽しさだけでやっていく訳には行かない。どうしても義務感が出て来てしまう。この「書かねば…」という気持ちも‘うつ’には良くない。だからこそ、このブログを無料で提供する方針も出来れば変えずにおこうと思っている(有料にする方法が分からないという事もあるが)。
それはやはり、いつでも誰でも気軽に読んでほしいというのが第一の理由だが、第二に内容の正確性や記事UP予定日に絶対の自信が持てなかったから、という理由もある。内容に関しては出来る範囲で注意を払っているが記憶違い・確認不足はゼロには出来ないし、やはり記事をUPする期日をなかなか守れないでいる(特に2ヶ月余りも書けなくなるのは全くの想定外だった)状態は、誠に申し訳ないが、「まぁ無料なんで」という言い訳で納得してもらうしかない。
言い訳ついでに、私の‘うつ病’の現状についてもお知らせしておきたい。
エアコンをうまく使えば現状維持くらいできるだろうという考えは甘かった。今夏、私が夜間睡眠時に冷房のスイッチを入れた日は7月~9月前半にかけてほぼ毎日だったが、一応この7月8月の2か月間の睡眠時間を計算してみた。
すると意外な事に1日平均1~2時間程度だが睡眠不足になっていたのは7月の1ヶ月だけだった。8月に入った途端に1日平均2時間も増えている、というか盛り返している。どうやら7月に急に目減りしてしまった1ヶ月分を翌8月いっぱいで、ほぼ取り返せたという事らしい。寝不足が2か月丸々続いていたら、こうして9月中に書き始めるなど絶対に無理だったはずだ。‘うつ病’の場合、症状の現れ方も治し方も、人の数だけあるといっても過言ではないくらい千差万別だが、睡眠時間が減少すれば症状の悪化を招き、睡眠時間が増加するほど回復速度も上がっていくという法則は、ほとんどの患者に、かなりの確率で当てはまるだろう、と私個人としては実感している。
因みに‘うつ病持ち’は金銭管理や計算など数字の扱いにもめっきり弱くなる。私は自分の前夜の大体の睡眠時間を毎朝忘れない内にカレンダーに書き込む事にしているので、今回は、その書き込んだ数字を2か月分、足し算・割り算すればイイだけなのだが、3時間程かかってしまった。合っているかどうか検算している内に正誤が分からなくなってしまうのだ。
また、7月中頃の時点で全く言葉も文章も頭の中に浮かんで来なかったのだから、せめて「暑くてブログ記事が書けないので待ってほしい」旨を7月末頃にでもUPすれば良かったかなぁと考えたり出来るのも、こうして睡眠時間と涼しさが戻って来た9月だからこそであって、睡眠不足の真っ最中は、臨機応変な対処などにも、どーしても気を回す事が出来ない。
更に‘うつ病’の中でも最も厄介な「意欲が湧かない」というのも、なかなか説明しにくい・理解されない症状だ。「意欲が湧かない」というのは当然、生活全般において、である。種類・程度は個人差が大きいが、出勤・労働・運動はもちろん、朝の起床・トイレに立つ・料理・食事・食器洗い・掃除・洗濯・入浴・買い物・外出・ゴミ出し・その他、名もなき家事などと呼ばれるあらゆる雑事、そして自分が楽しみにしているはずの趣味や友人との会話なども含めた全てにおいて行動に移すことが出来ず、出来たとしても非常にゆっくりで効率の悪いやり方しか出来ない(私は全部が全部そこまでヒドい状態になった事はない。何か一つ出来たと思ったら別の事が出来てない、という状態が多い)。健康な人から見れば「もしかしてわざと怒らせようとしてる?」と勘繰りたくもなるし、一緒に暮らしていれば「なんでコイツはぐうたら怠けていられるのに自分ばかり大変な思いをしなきゃならないのか」など恨み言の10や20も言いたくなる。
そして「意欲が湧かない」というのは「やる気がない」状態であり「仕事に集中していない」ので「失敗や手落ちを連発する」という「負の連鎖」を延々と続ける羽目になる。ただし今夏は、私は働いていないので自分の家の中だけで「意欲が湧かない」症状にじっくり向き合うことが出来た。
もう既に何度か書いてきたように、私は‘うつ’に関する知識や対処法を多少なりとも承知しているので、7月前半の時点で「最低限の生活・体力の維持を何よりも優先しよう」という方針に切り替えた。切り替えられたからこそ2ヶ月ちょっとの遅れで済んだのだが、待つ身の読者にとっては「2ヶ月以上も」という温度差がある事も一応は理解しているつもりだ。
しかし、私の場合は‘うつ’・寝不足のほか、生活不安というストレスもあったし、夏の暑さが、また別の症状を悪化させる事を分かっていなかった。
‘うつ病持ち’にとって猛暑・熱帯夜が続くというのは「リラックスできない状態が続く」という事なのだと思う。‘うつ’には「逼迫感・何かに追い立てられている感覚」という症状がある。分かりやすい言葉だと「恐怖を含んだ緊張感」とでも書けばいいのだろうか、あくまでも感覚なので、これまた説明が難しいのだが、怪我をして働かずにいられた去年の夏頃から1年ほどかけて、かなり軽くなっていたはずのハラハラ・ヒヤヒヤ感が、いつの間にか再発していた。
この夏、高気温の日が続いていたこの2か月ちょっとの期間だけ、どーいう訳か不安と恐怖がベッタリと身体全体に張り付いている感覚があった。この感覚がある間は、言葉・文章を選び出し、自分の思い通りに配置できるようなチカラはどーしても湧いて来なかったし、どんなに焦ってもブログ文章をまとめる意欲を絞り出すのも不可能だなと気付いたので早々に諦めよう、という考えしか浮かばなかった。
……涼しくなった現在は、あの妖怪‘子泣き爺’が背中に乗っているような(いや笑うトコではなくマジで) 重くてイヤ~な恐怖感は嘘のように無くなっている。あの崖っぷち感がきれいさっぱり無くなって気持ちが軽くなり、リラックス出来ているからこそ、こうして文章をまとめる精神的ゆとり、どころか頭の中から言葉の流出が止まらない・文章を書きたくて居ても立っても居られないような感覚が戻ってきている。あぁ良かった、やっぱり怠け癖が出たんじゃなくて病気のせいだったんだな、と改めてホッとしているところでもある。
もしかして‘うつ症状’は気温の変化も関係あるのか?と思い、‘冬季うつ’についてネットを何気なくあたっていたら、最近は‘夏季うつ’なんて言葉もあるらしい。その情報を鵜呑みにするなら今年の私は、元々通常運転の‘うつ状態’が少しは良くなって来ていたのに、‘夏季うつ’により一時的に悪化した、という考え方も成り立つ。この病気は‘がん’や心臓病と違って、検査などで見える化・数値化する事が出来ず、研究者・医師によって色んな解釈が出来てしまうので認知症と間違えられたりもする。そもそも‘うつ症状’の大半は「患者本人にも自覚しづらいし説明しづらい」だからこそ厄介な病気なのだ。
猛暑のツラさは充分、身に染みているつもりだったが‘うつ病持ち’というだけで「夏」に恐怖を感じるとは思ってもみなかった。
今年の春頃、かなり不愉快な郵便物が届いた。私の卒業した中学校の同窓会の案内状である。
タイミング的にあまりに無神経すぎる。世の中というのは、こーゆー「脳みそがほとんど入っていない奴が仕切ってる」という現実に私は思わず苦笑してしまった。
次に私がウンザリしたのは、プラス感情の搾取が大好きな奴ってドコにでもいるんだな、という事実を思い出したからだ。と言っても往復はがきの返信部分に記されている幹事名の持ち主が、その当人であるとは限らない。
そーゆー下らない事に執着するタイプの中には、妙に頭の回る奴がいて、あまり表立って動き回るようなことはせず、悪い流れになった場合を考えて無難な代表者を取り合えず充てがっておくのだ。そして、良さげな風向きになり、いざ感動の場面と相成った状況を確認した上で、「やっぱり同窓会企画を立ち上げて良かった、こんなに喜んでくれるなんて…」とか言い出すのだ。そして「さすが~」とか「イイ仕事したね~」とか言われたいのだろう。
私の性格も相当歪んでるなぁと我ながら思うが、まぁこれだけ嫌がらせやら親切ごかしやら、色んな目に遭ってるのだから、そりゃ歪んで当然というものだろう。
千歩譲って「そんな‘ええかっこしい’じゃない」などの反論を認めてもいいが、同窓会なんて面倒な催しを企画するからには、何かしらの自分の利益を見込んで、のはずなのだ。「純粋に旧交をあたためたい」だぁ?だったら何で38年後とか中途半端な数字なんだ?フツーに考えれば30年か、せめて35年だろーが。人を客寄せパンダの見世物にしてやろうって魂胆が丸見えだっつーの。
このブログがきっかけなのは一目瞭然なので、一応、同窓のよしみで忠告しておく(後で私のせいにされるのはマジで勘弁してほしい)。
こういう同窓会での‘あるある’は「霊験あらたかな水」とか「開運の壺」とか「誰でも3日で習得できる英会話術」とかを「昔一緒に遊んだ仲だし、今なら特別に半額にしとくよ」的な流れって事ぐらい分かってるはず、とは思うが。それ以外にも「いい副業ないかな?」とか「口説き相手を探しに来た」とか。50歳過ぎたオバンやオジンが考える事なんて、そんなもんだ。
ただし、もしイジメに困って、とにかく相談できそうな場を求めてという目的もあるかも、とも思ったので、その場合は、こんなブログをやってる立場上、完全無視というのも気が引けるし、私見だけ書いておく。といっても病中の私に言える事は、ごく基本的な方法だけだ。
イジメというのは多かれ少なかれ地域性やその場の雰囲気という物がある。子供なら校風、大人なら社風が関係あるということ。つまり部外者の私に相談するより、まずは子供に向き合い、ちゃんと目を見て事実確認。ちょっとしたケンカや行き違い・子供の思い込みという事もある。本当に深刻だとなったら担任・学校カウンセラー→校長→教育委員会と周りを巻き込んでいき、それでダメなら近隣学区かフリースクール。もちろんどの段階でも子供の反応をよく観て気持ちを汲み取ってから。問題解決に拘るより親が必死な様子(←コレが出来ない親が多いんだが。しかし子供が特に反応も見せないまま、いきなり死を選ぶパターンは大変心苦しいが‘残念’以外の言葉は見つからない)を見せるだけで結構子供は納得し自分の落ち着き先を見つけるものだ(でも最初から子供の忍耐力を当てにしてはダメ)。最終的には良い学校・良い会社に行かずとも自力で生きて行ければ万々歳というごく自然な考えに立ち返る。という既に世間一般で言われている事しか私には書けない。
そして大人のイジメの場合は、ハッキリ言って本人の責任という確率が一番高い。50過ぎて自分がイジメられてる理由が分からないというタイプはイジメられるのも当然。どーでもいい事に時間や気を使って肝心の仕事が出来てないタイプは、とっとと働け。もちろん社風やストレス解消など理不尽な理由で標的にされる場合もあるが、自分の働きぶりに自信があるのに不快な目に遭い続けると思うなら自分に合う職場までひたすら転職かYouTuberか身内の臑かじり(←現在の私・笑)かヒモになるか。まぁどれを取ってもしんどいし、向き不向きやリスクあるし、コツも気遣いも必要だ。どんな方法であれ「生きて行くというのは覚悟・しぶとさ・開き直り」という事に、このブログを読む‘前’に気付いていない者は相当ヤバいとは思うが。‘自分は一度自殺した’つもりになって本気で考えれば大抵は何とかなる。ま、テキトーに頑張れ。
長い間、薄汚れたタイプばかり見てきたから少々ヒネくれた表現になってしまった。
何にしても、この同窓会企画は、有名人(という自覚ゼロ)の‘私’をダシにすれば盛り上がるだろうという浅慮が発端であることは間違いない。それが何を意味するのか?イジメの件などすっかり忘れている、或いは無かった事に出来るくらいにしか思っていないのだろう。少なくともイジメた事を心底後悔している真っ当な神経を持っている者は“喜んで出席したい”とは考えないはずだ。
忘れたい者は忘れればいい。そもそも他人が何を覚えていようが、どんな思い出を持っていようが口出しなど出来ないし、されたくもない。
だからこそ私は絶対に忘れない。あの卑劣な蛮行を実行出来る素質を人間なら誰しも100%持っているという事実を何が何でも忘れたくない。イジメには、戦争と同じで人間の本質が詰まっている。人間の本質は、あまりにも非道すぎて汚すぎて観察を続ける事は途中で嫌になるかもしれない。ストレスを溜めすぎないために観察をやめる事はあっても、イジメ・犯罪・戦争に代表される、人間が持つ無神経・悪意と、それらが生み出すあらゆる理不尽・苦しみを憎み否定する事は絶対にやめたくない。人間の無神経・悪意を憎むという事は、もちろん自分自身を憎む・否定するという事にもなる(当然私にも無神経や悪意は大量にある)から、今後病気が治るにつれて考えが変わる可能性もある。いつまで続くか分からないが、少なくとも現在ハッキリしているのは、過去に自らがイジメたりイジメを見ぬ振りをしていた記憶を何の罪悪感もなくキレイに忘れられる人間に関わっている時間も余裕もない、という事だ。
もちろんこれは私個人の意見であって、本気で昔を懐かしみ思い出話を楽しめる者も必ず何人かは居ると思う。‘私’が来ないと知っていれば逆に参加者が増えるかもしれない。気のすむまでタップリ10月中旬の同窓会を楽しんでほしい。(←既に悪意満載)
病気のせいとはいえ、自分の心情を吐き出す場が2か月も持てなかったので、少々長文が過ぎるかもしれない。しかし、今回は、後もう一つ書いておくべき事がある。
‘うつ病持ち’としてある程度の時間を経過している者は、難治患者として精神科医に任せるより仕方がない、という事だ。〚第5綴〛にも書いてあるように‘うつ病’はもちろんその他の精神疾患においても、患者に対する接し方には非常に神経を使うし状況ごとの判断も必要なので、専門的知識や経験がないのなら極力手も口も出さない、という忍耐力がとても大切だと思う。
だからこそ同居している家族の中に精神疾患患者がいるという方々には、本当にお察し申し上げるとしか言えない。以前に、身内を自殺で失う絶望・苦痛・悲しさは筆舌に尽くしがたいと書いたが、「生きている精神疾患患者」と共に暮らす状態も、また言葉では簡単に言い表せない苦痛・苦悩と混乱があるからだ。
精神疾患を持つ者と何度か継続して接した経験のある者ならきっと想像できると思う。まず普通の会話が成立しないし金銭の管理も任せられない。「あれ、今日は受け答えがしっかりしてる」等と安心した次の瞬間には取り返しのつかない形で凡ミスしてる、なんてのは日常茶飯事だ。財布を無くしたら警察に行く事は出来ても、中に入っていた金額などまず思い出せないし銀行カード停止の連絡にまで気が回るかどうか。一人で留守番などさせたら火事の心配をし、子供のいる家庭ならケガをさせるんじゃないかと気を揉むし、自殺騒ぎを起こして近所から疎まれる例もある。そんな気が気じゃない生活が数ヶ月でも続いたら、どんなに健康な人間でも二人目の精神疾患患者に成りかねない。それでも自殺云々までいけば入院させて生活を立て直せる可能性も出て来るが、入院費が払えない・要入院の診断が出ない場合はかなり悲惨な生活が続く事になる。
つまり家族ではないのなら、一旦繋がりを断ち切って距離を取り、自分が巻き込まれない勇気を持つ事も大切なのだ。仕事関係なら絶対に顔を合わせないという訳にもいかないだろうが、はれ物に触るような扱いをせずに失敗や落ち度があったら、はっきり指摘する。それが出来ないのであれば淡々とやるべき業務だけやってさっさとその場を立ち去るという毅然とした態度を見せるぐらいの事はしないと患者本人がいつまで経っても患者としての自覚が持てない上に、周囲にもストレスが溜まっていく。調子よく順調に仕事が進む事も稀にあるかもしれないが、その場限りと思った方が良い。私の経験から言うと‘うつ病持ち’は労働と治療の同時進行はほぼ意味がない、どころか悪化させる可能性が高い。子供にも出来るような単純作業ならともかく、少なくとも症状が発生・悪化した時と同じ部署・同程度の業務では回復はまず無理だ。
そんな環境で、何度も繰り返されるミスを周囲の者が尻ぬぐいさせられているのに我慢し続けていると、なぜか‘うつ病患者’というのは判断力を失っているはずなのに、「この人は自分に気を使ってくれているから、もっと頼っても大丈夫だ」という変な安心感を持ってしまう。適切な気遣いをしてくれる相手ほど、もっと負担をかけてもOK、という間違った認識をしてしまう。それでいて自分の病気に対しては認識が甘いまま「‘うつ’って言っても普通に仕事出来てるし、服薬とか通院とかサボってもいいか」と更に輪をかけて間違った方向にズレていく。
…治って来た今の私なら、この段階の‘うつ病持ち’の心情を説明できる。――しんどくてツラくてどーしようもないのにどーしたものか考える力が無いのだ。「病気だと周囲から思われているけど自分は結構‘まとも’なはずだ。だってこうして毎日働けているし、こんなに努力もしてる。なんで皆はこんなにしんどくても頑張ってる自分の要求通りに素直に動いてくれないんだろう?」本人は筋が通ってるつもりだが、根本的な価値観が既に大きい誤解で成り立ってることに気付かないのだ。でも、ツラい現状は変わらないから人に縋り付く行動も止められない――
この精神疾患特有の無神経に気付かないまま、或いは気付いていても「病人に強く言えないし」などと周囲の人間が善人ぶっていると、余計な負担も無理な要求も増えていく一方だ。今となっては、仕事や気遣いが出来ていた過去の栄光に胡坐をかいているだけの単なる厄介者だ。ミイラ取りがミイラになる前に、離れられる者は、少しでも早い段階で「一切連絡しない」などの手段を取るべきだ。結果的にそれが後々の患者本人の為にもなる。
「見捨てるなんてそんな残酷なこと出来ない」と考えてしまう者は患者が治っていく段階を想定していない。‘うつ病持ち’は基本的に真面目で優しい良い子タイプが多い、という事は以前にも書いた。つまり治っていく時、少しずつ判断力が戻って周りが見えてくる段階になった時「自分はこんなに何度も間違えて失敗して、大勢の人に迷惑や負担をかけて来たのだ」という罪悪感を感じるようになってしまう。実際、私も症状が軽くなって来る度、何とも居心地の悪い気まずい自己嫌悪を感じた記憶がある。
治りかけの時に“自殺衝動が増える”というのは「今まで自分の(病気の)せいで周囲の人間が大変な迷惑をこうむって来たんだ。これ以上迷惑をかけるくらいなら、こんなダメな自分は死んだ方が良い」という、せっかく治って来た自分の努力と周囲の気遣いを水の泡にする思い込みをしてしまうからだ、というのが、私の個人的経験から来る個人的意見なのだが。
何にしても長い目で見た場合、患者には関わらないでいる方が「お互いに」誤解も負担も結果的には減らせる。そういう意味でも患者と明確に距離を空ける事に罪悪感など持つ必要はない。そんな事を気にする暇があるなら休職・退職を勧めた方が、よほど建設的だ。
それに、…これは私以外では言葉に出来る者がまず居ないと思うので、敢えて書いておくが「死んだら死んだで本人の責任」と割り切る「勇気」は、絶対に、誰が何といおうと、重要である。自殺とは残された者たちを苦しめる、犯罪に等しい行為であり、周囲の説得を聴き入れず健康管理を怠って自分の命を粗末にした本人に非がある。←この原則から外れてしまうと「自殺すれば皆の注目を集められるし、自分が大切な存在だと気付いてくれる。だったら自殺した方が得でしょ」などと考える者が出て来てしまう。
ここまで書いてきて、私は本当に幸運だったんだな、と改めて思う。私の友人たちは、ちゃんと「私を放っておいてくれる」←こんな一見冷たく見える態度が、こうして治って来てみるとどんなにありがたい事であったか、こんなにも気楽に自分のやり方で治すことが出来たのは、私の性格を分かった上で、ひたすら待ち続けてくれたからこそだよなぁ、というのが実感できて本当に嬉しくなる。私は家族(が利己的で無関心であったから結果的に私の病気回復の面では好都合だったが)には恵まれなかったが、ちゃんと実(じつ)のある正しい意味での聡明な友人には恵まれた。色んな意味で無茶苦茶な世の中ではあるが、少しは「良い矛盾」もあるのだな、と思う。
だがやはり、ここまで書いても、分からない人間には分からないのだ。ほとんどの人間は見た目で分かり易い「善意・誠実」「頭が良い」「仕事ができる」「豊かな生活」と言われる・思われる事こそが、この世界では一番重要と考えてしまう。そんな間違った固定観念が、世の中をどんどんズレた方向へ引っ張ってゆく。
「一番大切な事は目に見えない」あの世界一有名な絵本が世界の至る所で読まれているのに、この言葉の意味を真剣に考え、実行に移す者は少数派だ。ましてや一介のおばちゃんの書いている地味なブログなんぞ「まあまあ面白いかも」と一時は注目されても、簡単に読み捨てられる類であるのも分かっているし、だからこそ気楽に続けられる部分もある。
この先、何十年あるか分からないが、気楽にリラックスしながら、戦っていこうと思う。
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