自殺について        〚第6綴〛

こういった話題は取り上げるタイミングが結構難しい。
コロナ禍もひとまず落ち着いた感はある。と思ってはいるが、何しろ私はこの10年程は‘うつ病’と自分の生活の事しか考えて来られなかった。ありがたい事にワクチン接種を受けるという発想も余裕も、ほぼ無いまま、この4年を乗り切ってしまったし、コロナ禍で他者と関わる時間が減ってしまった事が原因で自殺が増えたという考え方も一部にあるようだが、私には今一つピンと来ない。私は、やはり一人でいるのが性に合っているらしい(苦笑)。
人がバタバタ死んでいく状況にやっと一区切りがついたように見えるこのタイミングで、わざわざ自殺についての話題を提供しなくても…とも思うのだが、どー考えてもコロナ禍の余波はもうしばらく残るはずだし、自殺する人数もすぐには減らないだろうという気がする(こんな予想は外れてほしいが)。注意喚起の意味でも、今のうちに書いておきたい。

自分の身近な人間が、ある日突然、自殺という方法でこの世を去ってしまったら、大抵は平静を保てない。ましてやそれが自分の子供だったら……、その絶望と苦痛・悲しさは、正に筆舌に尽くしがたい、としか書きようがない。この世界で最も耐え難く全く終わりの見えない苦しみの中でも最強の一つだろう。
因みに私の父は脳梗塞が元で5年ほど前に他界しており、今も健在の母は、私が自殺すれば2~3日は食欲のない振りくらいはするかもしれないが、その後はけろりとして、きっとこう言うだろう「お母さんのせいじゃないでしょ?」←こういう親も世の中には結構いる、という事も頭の片隅に入れておいた方がいい。「さぞかし親御さんはつらいでしょうに」という気遣いが不要な場合もある。
だからこそ、子供の自殺に際し自分自身を責めてしまう親に対してこそ、「自分を責める親である時点で責任はないのでは」などと私は考えてしまう。子供を産んだこともない女の安易な逆張りの屁理屈としか受け取ってもらえなかったとしても。

私には、子供に自殺された親の気持ちはどーやっても分からない。
では反対に自殺する側の立場から考えてみよう。何といっても私は小学5年生の時から自殺の方法を考えてきたし、「世間が自殺者とその遺族をどう扱うか」も観てきたし、「‘うつ’になる前」と「’うつ’になってから」では自殺に対する考え方が結構変わってくるという事も知っている。‘死にたい気持ち’にも色々種類があるのだ。もちろん私個人の感想ではあるが。
その中でも、割と一般的にも当てはまるのが、「真面目で気持ちの優しい良い子」ほど自殺を選びやすい、という傾向だ。あくまでも傾向であって不真面目な人は自殺はしない、という訳ではないが、真面目だからこそ視野が狭くなりやすいという部分は否定できないと思う。

私は20代後半の頃、習い事をしていた時期に、一度だけ、ヤバい状態になった事がある。
その日は授業終了後、家に帰ってからだと課題をやる気にならないと思ったので、空き教室を使わせてもらい一人で机に向かっていた。既にその場には私のクラスメートが3人ほどで何か話し込んでおり、最初は特に気にも留めずにいたが、その内に話の内容が自然と耳に入ってきた。もちろん詳細は忘れてしまったが、確か「自分たち3人でどこかへ遊びに行こう」といった会話で、今思い返すと何がそんなに気に障ったのか自分でも分からないが、当時の私は「なんて無神経な人たちだ」と急にムカついてしまい、そそくさとその教室から出て来てしまった。とりあえず家に帰ろうと、そのイライラした状態のまま駅のホームまでたどり着き「…そんなに親しい間柄でもなかったってことか」と気付いた辺りから、どうにも‘悪い沼’にはまり込んでしまう。「私なんか居ても居なくても関係ないんじゃないか」などと考え始めると、そのままどんどん悪い方向から抜け出せなくなり、いつの間にかホームから線路をじーーーっと見下ろしている自分がいた。
おそらく1~2日睡眠が足りていなかったのだろうとは思うが、あの瞬間、正に自殺行為に向かう瞬間というのは、「死にたい」とか「もうダメだ」とかの具体的な思考は、少なくとも、あの瞬間の私には無かった。まるで水の中に沈んでいるかの様に周囲の音は耳に入らず、自分の視点がまるでカメラの望遠レンズになったかの様に線路の映像だけが極端に拡大され、無意識の内に死に向かってふら~っと引き寄せられるような感覚だ。完全に‘時間’と‘思考’が停止した、ほんの数分間の「プチうつ」状態といってもいいかもしれない。しかし、これは私が本格的に‘うつ病’になる7年ほど前の出来事だ。
その後すぐに「…これは何か食べた方がいいな」という事に気付き、家に帰って有り合わせの物を胃に収めると、なぜあんな異常な状態になったのかさえ、あっという間に分からなくなった。ストレス・寝不足・疲労・空腹が精神を弱らせ、それが聴力低下や視野狭窄など肉体的な機能にも何らかの異常を起こさせるのかもしれない。
もちろん上に書いたのは私個人の感想・経験であって誰にでも当てはまる訳ではないと思うが、私が駅のホームに着いてから‘我に返る’まで、おそらく10分以上は掛かっていない。私が教室から駅に着くまでの時間も長めに見て7~8分だ。つまり20分ほど前までフツーに「課題やらなきゃ…」と思っていた人間が、いわゆる「ほんの一瞬の気の迷い」で自殺を図ってしまう例は現実にはあり得る、という事だ。精神疾患の疑い・診断があるかどうかは一切関係なく「取り返しのつかない間違い」を犯してしまう可能性は誰にでもある。

可能なら、ここで自殺を防ぐ方法でも書ければイイのだが…、これまた残念な事に確実な方法というのは無い。自殺を禁忌とする宗教が普及している国なら比較的自殺件数は少ないという統計もあるようだが、完全にゼロにするのはやはり無理だ。
ただ何にでも例外はある。どんな国でも戦争状態にある間は自殺が目に見えて減る、らしい(第一次・第二次大戦時の情報を元にした調査に依る。現代以降に勃発する戦争に関しては当然未知数)。
……人間って本っっ当に面倒くさい生き物だなと思うのだが、自分もその一部なのだから尚更厄介だ。色んな意味で。

だが愚痴ばかり並べても仕方がない。ここからは自殺者遺族に向けて、ほんの少しだけでも「前向きになれそう」な、或いはほんの少しだけでも「楽になれそう」な方法について書いておきたい。

○話し相手を見つけておく
これについては説明の必要はないと思うが、一言で言えば悲しみ・苦しさを溜め込まないように人との会話で発散する、という事だ。できれば亡くなった人とある程度親交のあった人間が望ましい。相手が見つからない場合は自殺者遺族の会・自殺対策支援などで検索すれば、電話・メール・SNSでの相談窓口がすぐに出てくる。ただし電話の場合、繋がる確率が低いというか繋がるまでかなり時間が掛かると思った方が良いしメールやSNSでも即時対応は基本的には望めない。なので究極(?)の方法として「AI」に相談するという手もある。現時点では私としても「うーん…?」という気もするのだが、個人情報流出や相手の都合を気に掛ける必要がないという利点があるし、とにかく急速に進化しているので一度は無機質・平凡な回答しか出なかったとしても、1か月後には全く違う答え方をしてくる可能性が高い。気が向いた時にでも気軽に試してみるのも悪くはない、…というか面白いというか…怖いというか(←こーゆーのも観られてんだろうなぁ、AIに)。
ただ、どんなにツラくても生きて行く為には「しぶとさ・したたかさ」が必要であり、しぶとさ・したたかさには「利用できるモノは何でも利用する」という発想が不可欠だと思う。

○泣く
いわゆる「涙活」である。既にご存じの方も多いと思うが「泣くとスッキリする」は科学的に証明されている。巷でよく言われているのは、観る前から「泣けると分かっている映画やドラマを観る」という方法で、もちろんそれも一定の効果があるとは思う。
ただ私がこの場で書いておきたいのは「泣きたいと思った時、我慢せずに即座に泣いた方が良い」という事だ。状況さえ許せばトイレや人のいない部屋に駆け込んで3~5分でも泣いておく事をお勧めする。我慢する時間が長くなるほど何か良くないモノが脳や身体に溜まるような気がするのは私だけかもしれないが、トイレ同様に出すべきものは早めに出した方がイイ(笑)。
しかし仕事中など、どうしてもその場で泣けない時は、忘れないようメモなどで記録しておいて、出来るだけ早い内に、当日か翌日くらいまでには時間を用意して、意識的に泣いて「自分の悲しみの収支をトントンにしておく」のだ。こういうちょっとした工夫を日常的に心掛けるかどうかで心の傷の回復具合が変わってくるように思うのだが、どうだろうか?

○悲しみの5段階(死の受容)
これは終末期医療に尽力したアメリカの女性精神科医キューブラー・ロスが提唱していた「死を受け入れるための概念(考え方)」とでも書けばいいのだろうか、そもそもは不治の病などで余命1年などと宣告を受けた患者に対して「もうじき自分は死ぬのだ」という恐怖心を少しでも落ち着かせ受け入れやすくするために考えられた(と私は推測している)。現在では、身内を亡くした遺族が悲しさ・苦しみを少しづつ段階を踏んで認識し、受け入れていく方法としても知られている。

1.否認  死の知らせを受けても、すぐには信じられない・認められない心理状態
2.怒り  どうして他の子ではなく自分の子供なのかという、ある意味八つ当たり状態
3.取引  悲しさ・苦しみから逃れようと宗教にすがるなど足掻かずにはいられない状態
4.抑うつ 何をしても無駄だと悟り、絶望感で無気力になる状態 
5.受容  もうこの世にはいないという事実を受け入れ精神的に落ち着いた状態

便宜上1~5の番号を振ってあるが、必ずしもこの順番通りに進むわけではなく、必ずしも5種類すべてを経験するとも限らない。あくまでも大まかな目安にしかならないし、どの段階においても数日~数ヶ月で済むのか3年位なのか10年以上かかるのかは個人差が大きいはずだ。
‘感情’とは非常に個人的なモノだ」という事も出来れば覚えておいた方が良い。
分かりやすく紹介するために私なりに短めに修正・加工してしまったので、原典を知りたい場合は、上にある語句で検索してもらいたい。

○ぬえのなくよの個人的意見
……「死ぬ」って何だろう?とずっと考えてきた。特に自殺はどうしても他の死亡原因とは違う、特殊で異常なイメージを持たれがちだ。だが昔は人柱・生贄という風習があったし、現在では尊厳死を認める法律も他国にはある。しかし詰まるところ、‘あの世’で死者の魂がどうなっているのか?死に方で優劣・区別があるのか?は誰にも分からない。
「自ら志願して人柱になった者」と「周りから懇願されて人柱にならざるを得なかった者」はどちらも自殺と定義できるし、どちらも利他的行動ではあるが、一緒くたにするのは間違っている、という気がする。なら特攻隊員は?あれを自殺と呼べるかどうか、恨みや未練が残っているかどうかは人によってかなり違うはずだ。では法律に則って条件を満たした尊厳死なら天国へ行ける?「…そんなはずない」と思うのは私だけだろうか?
どれも生者側の理屈・価値観であって、結局、生者が後悔や罪悪感を減らす為の方便だ、と言い切ってしまうのは乱暴だろうか?
色々と御託を並べたが、要するに生者は‘この世’の理屈や常識や法律に従って考えたり行動するしかない、という事だ。逆に言えばそういう‘この世’の「ものさし」も視点をちょっと変えるだけで、ほんの少し楽に、または前向きに考えられるし、そういう考え方を自分の頭の中だけで変えたところで誰にも迷惑は掛からないという事でもある。
友人が自殺なぞしようもんなら、たぶん悲しみの5段階を一周した後で、私ならこう考える。
「余計なお世話と迷惑がられても、毎日の健康管理について、しつこく話しておけば良かったのかもしれないが、そっちももう少し自分を大切にする方法を考えてほしかった。いきなり死ぬなんて自分勝手にも程がある。ビンタの2~3発も食らわせてやるから、私が寿命を全うするまで、そっちで待ってろ」…くらいしか言える事はないと思う。魂に、ビンタが出来るのかどうかも分からないが。

※[悲しみの5段階(死の受容)]の説明部分において「ある方」からご指摘を頂きましたので、青い下線で目印を付けておきました。この青い部分の文章に関しては、確かに私の認識が間違っている可能性が高く、出来るだけ早めに直す必要があるのですが、読者に無断で書き換える訳にはいかない内容であり、また私自身の言葉で説明するには少々時間を頂きたいので、当面はこの青い下線を引いた状態のまま“保留”とさせて下さい。5月中旬か6月中旬の記事UP時にはお詫びして訂正する事になると思います。今しばらくお待ち下さい。<この※部分は2024年4月26日に加筆>

コメント

タイトルとURLをコピーしました