説明と補足の続き    〚第5綴〛

ここで「うつ病」ついての、ごく基本的な知識を書いておきたい。
そもそも人間の脳みそ自体に未解明な部分が多く、よって‘うつ病’の本質的な意味での原因、つまりストレスや心理的な傷が不眠や食欲減退を発生させ、‘うつ病’という脳みそが使い物にならない状態になってしまう科学的な原理は解っていない、のだそうだ。ただし‘うつ病’の場合、かなり歴史が古く、患者の多さや自殺の危険性などの要因もあって、相当の研究が進められたのだろう。現在では副作用が少なく効果のある薬や治療法も確立されてきている。とにかく素人判断は非常に危険だし、陰気で怪しげなイメージは既に過去の話であって最近の精神科・心療内科は清潔で明るく入りやすいので、迷っているくらいなら一度専門医を訪ねてみてほしい。

もちろん病院へ行く前にどんな症状があるかをはっきり答えられる状態にしておく必要はある。何しろ判断力・注意力が激減している状態だから、紙でもスマホでも事前にメモして行った方が慌てずに済むはずだ。比較的患者本人でも自覚しやすいのは、「眠れない」「食欲がない」「体重が極端に減った又は極端に増えた」「イライラする回数・時間が増えた」「楽しみにしていた趣味などに興味が無くなった」「仕事や家事に対する意欲が湧かない」「外に出かけたり友人に会うのが億劫」「笑わなくなった」等がある。
次に重要なのが、本人の生い立ちや家庭環境・子供の頃の体験についての説明である。私も初めて精神科に行き初診で診察を受けた時、かなり戸惑ったのだが、「予備問診」と呼ばれる、30分~1時間近く(私の場合は40分くらいだった)をかけて子供時代に家族関係がどうだったか、などについて結構‘立ち入った質問’をされる時間がある。当然、私も「こんな話、治療と何の関係があるんだろう」と思いながらも、正直に答えるしかなかった(当時はストレスで毎日2~3時間しか眠れず全く余裕がなかった)だけなのだが、今なら「こういう病院こそ、しっかりした治療体制の出来ている信頼できる病院だ」と言い切ることが出来る。
たとえ大人になってから‘うつ病’を発症したとしても根本的な原因は子供時代の家庭環境に起因している確率が高い。初診で子供時代の経験・家庭環境について聞き取りを済ませておいた方が、その後の治療方針が立てやすいし、結果的に患者本人の為にもなるはずなのだ。
とはいえ、どうしても話したくない事も、あって当然なので無理に話す必要はないし、誠実な医師であれば必ず「話したくなったら、で良いですよ」と言ってくれるはずだ。週に1度くらいの通院を数か月やってみて、実際の生活面で必要だが当たり障りのない「薬の副作用」や「改善したい症状」などについて質問をしていきながら、病気に対する理解を深めていったり、担当医との会話に馴染んでいく時間を作る。少し遠回りにも思えるが、自分の気持ちに折り合いをつける期間を置くことで、話しにくい事もいずれ話せるようになっていく。第3綴の最後に書いたように、うつ病治療に必要なのは自分の価値観・意識・拘りがどんな状態なのかを確認した上で、どの辺りが間違っているのか?どう修正していくべきなのか?を探っていく作業だ。また第4綴の書籍紹介の少し上の辺りに書いたように「自他ともに感情を表明・認識できる状態にする」その為には自分の脳みその中にあるモノを一旦取り出して、精神科医に診てもらう必要がある。話しにくくても、少しずつでいいから話していく事は、心の負担を少しずつ、そして一時的にでも医師に分担してもらう作業でもある。

……ただ家庭環境が原因などと書くと、親の立場としては「自分の育て方に問題があったのだろうか?」などと考えてしまう方もいるかもしれない。しかし、そもそも精神疾患にならない確実な育て方など誰にも分らないし、今まさに現在進行形で子供・子育てに向き合っている親たちにとって迷いや心配だらけの毎日なのだから、妊娠すらしたことがない者に、あーだこーだ言われたくないだろうとは思う。それでも世の中の人間を年齢に関わらず、ひたすら観察する事に時間をかけてきた経験から言える事があるとしたら「子供は成長過程で8~9割以上、親の影響を受けるが、たとえ新生児であっても親とは別人格を持つ完全な他人」ということだ。また親の影響一つ取っても良い物と悪い物、単純に2種類に分別出来るものでもないし、親が良いと思った事に反発する場合もあれば、親が悪いと思った事をすんなり受け入れてしまう場合もあるし、成長してから逆の考え方に変わったりする場合もある。それぞれの家庭環境・親兄弟姉妹やそれ以外の人間との関係性・子供本人の特質など、正に千差万別で一概に語れるモノでもない。
’うつ病’になりやすいタイプに育ててしまったのか?と心配している暇があるなら、この病気に適切に対処するにはどうすればいいのか?を検索でもしている方がよほど建設的だ。何の問題も無く間違えずに生きられる人間など何処にもいない。問題や間違いに対処する方法を、どう見つけるか?どう実践していくか?が重要だと思う。

話を通院治療に戻そう。‘うつ病’との診断を受ければ、そこで今の自分の苦しさに病名が付けられるのだから、ある意味問題が一つ解決したと言える。だが同時に次の問題の発生でもある。どうやって治していくか?は患者本人が考えて行くべきだから、だ。意外に思われるだろうが、精神科医は来院した患者の病状の診断と診断に応じた薬の処方が基本的な役目であって具体的な助言は必要最小限しかしない。現代医療の欠点として「3分診療」が挙げられるが、私はそれほど悪い事とは思わない。自分の心身の健康について医師任せにするのではなく患者本人が考えるのが当然だし、患者数の多さから言っても一人当たりの時間が短くなるのは、やむを得ない状況でもある。話を聴いてもらえない状況に不満があって経済的に裕福な人は、保険外診療になる場合もあるカウンセリングを中心とする病院をお勧めしておく。
ともかく、誰もがかかった事のある内科なら「暖かくして栄養のある食事を」などと分かりやすい助言がもらえるが、精神科はそういう訳にはいかないのである。

これは精神科に17年通い続けた私の推測だが、患者の自発的な治癒力を引き出すには「患者本人の意思を尊重する」という人間対人間の一番基本的な関わり方を大切にすべきと精神科医は考えているのではないだろうか。‘うつ病’は人間関係のストレスが原因だ、とよく言われるが、私に言わせれば「人間不信」の状態なのだ。病状を改善するには人間を信じられるようにするのが一番の薬なのだ。その為には患者の目の前にいる医師が、まず率先して信用に足る人物である、と証明して見せる必要があるので、患者によっては‘上から目線’と受け取ってしまう可能性のある”助言”を極力控えているのではないか、とこの数年考えるようになった。
しかしながら、である。上に書いた7行(スマホで読んでいる場合は15行)は基本的には「建前」なのだ。もちろん「建前」でも、無くてはならないのだが、実際に一日何十人もの患者を診察している精神科医たちの「本音」は全く別の所にあると思う。
ハッキリ言って精神疾患患者は医師の言う事など聞きゃしないのだ。私はうつ病患者の中でも割と冷静なタイプなので多少の自覚はあったが、それでも自分が何を言いたいのか、実際に診察中に何を言ったのか、担当医から何を言われて、それがどういう意味なのか、理解できていないし噛み合っていない時もかなりあったと思う。第3綴にも書いてきたように、うつ病持ちというのは集中力・判断力・注意力・記憶力、という日常生活を滞りなく送るために必要な脳力が大きく欠落している上に、ほぼ意味のない下らない思い込みや拘りを頑なに守っている。自分の脳みそがブッ壊れている、という自覚が持てないのだから、普通の会話など成り立つはずがない。そういう大勢の患者を相手にどう治療を進めていくか?
……おそらく様々な経緯があって、患者の話を‘ただ聴く’という方法に落ち着いたのではないだろうか。患者の症状が改善したか?悪化したか?の判断基準は、患者本人の発言・表情・しぐさの中に必ず現れるモノだ。それらをしっかり観察して、その時点での適切な薬の処方に主軸を置いて、自殺願望など危険な思い込みにはハッキリ否定はしても、極力患者の言う事を肯定し、前回の診察時よりも改善された症状など前向きな言葉をかけるようにする事で患者の意識を少しずつ変えていく。そんな緩慢だが地道なやり方でないと自殺が減らせず、結果として医療訴訟が増えてしまったという反省があったのではないか。あらゆる職業の中で、最も自殺率が高いのは精神科医、とも言われている。患者の苦しさは当然だが、医師側も半端な覚悟では続けられない。そんなギリギリの綱渡り状態で、現代日本の精神科医療は成り立っているのでは…、というのはうつ病患者の一人である私の思い込み、だろうか?

2024年の始まりと共に、皆さんに当ブログを読んで頂けるようになり、じきに3ヶ月になる。数年前までは‘私にブログなんて出来る訳ない’と思い込んでいたのだから、我ながら「何事もやってみるもんだ」と実感している。これまで、ぬえのなくよを応援し見守って下さった方々には心から感謝すると同時に今後も出来るだけ長く愛読して頂ける事を願うばかりだ。
…そう願うだけで済ませたい所ではあるが、皆さんもお気付きのように、応援して下さる方々の中には、私の尊厳を踏みにじる行為をしている人たちも含まれている事を、私の立場からハッキリさせておく必要があるように思う。
自分のブログで、こんな事を書くのは少々抵抗があるのだが、’私’の書く文章には何らかの求心力のようなモノがあるらしい。その私の文章にハマった読者の皆さんは、①私のような埋もれた(?)人材を発見したと思い込む事で自分の人間としての格が上がった様な優越感に浸ってしまうタイプや②自分にはない才能を持っていると勘違いして勝手に嫉妬して来るタイプ、そして③ココまで影響力がある’私’を「ダシ」として利用すれば自分の宣伝・利益に繋がるという打算で考えるタイプ、更には④未だ一般人の範疇にある’私’に不特定多数が押し寄せてくる状態に可哀そうとかドン引きしているタイプ、の大まかに4種類に分けられる、と考えてみた。

①タイプにとって‘私’は相当「オカズ」としての価値が高いらしい。私も自分で自分を貶めるような文章は書きたくないのだが、私を真っ当に心配してくれる人ほど気詰まりを感じているのが分かる以上、私以外に指摘できる者がいないのだからしょうがない。
私は埋もれていたつもりはないし、読者に優越感を与えよう等と考えた事もないが、この①タイプの人は勝手に舞い上がって勝手に喜びに浸るのがやめられないらしい。自分一人が楽しく気持ち良くなりたいだけで、’私’の意思も尊厳も一切お構いなしだ。私はこの状態を「プラス感情の搾取」と名付ける事にした。

②タイプの人は、今の所、私の視点からは一人しか確認できないのだが、もしかしたら私が思っている以上に沢山いるのだろうか?だとしたら勘違いも甚だしいとしか言いようがない。私の文章に人を楽しませるチカラがあるとしたら、それは私の友人たちが私には分不相応と思えるくらいイイ奴ばかりだったからだ。あの連中と連絡を取るときに「どうせなら楽しんでもらえるメールを送ったろ」と思っている内に自然と文章が上手くなっただけの事だ。特別な努力など何もしていない。
……ただ「笑う」という感情に関しては私なりに思う所があるというか、非常に興味深い出来事が過去にあったが、ここでは論点がズレるので、その話はまた別の機会に譲る。

※これは全くの私見だが①と②この2つのタイプが、これほどまでに特異な行動をとった原因は睡眠不足による判断力の低下があると思う。精神疾患との診断を受けているかどうかは全く関係ない。長期間の寝不足を軽く見ている者は周囲の人間を不愉快や理不尽な目に遭わせる場合があると自覚すべきである。

③タイプに関しては一応理解は出来る。私だって今こうしてブログを書いている以上、この業界に打って出ようとしているのだから宣伝活動がいかに重要かは判っている。しかしドン引きする者がいる様な状況で’欲’を出しすぎれば好感度が下がるくらいは予想できるはずだ。それでも’欲’を自覚している者はまだ救いようがある。厄介なのは「これは宣伝活動ではない。善意でやってるだけだ」と信じているタイプ、中でも、大した知識もないのに一見穿った言葉や意見をちょっと入れて「コレで相手の心に刺さるはず」と思い込める、一言でいえば”おめでたいヤツ”である。大抵どこにでもいるのだが、この文章を読んでも自覚できない確率が高い。つまり放っておく以外の方法がない、というのが本当に癪に障るのだが。

④のタイプは一見何も非難すべき点は無いように見える。だが、このタイプはイジメでいえば傍観者の立場だ。1年後・3年後・5年後には、こんな状態を目の当たりにした事もすっかり忘れて人の尊厳を踏みにじる側に立ってしまう可能性がある。人を傷つけた罪悪感を持ちたくない・人に傷付けられて惨めな思いをしたくない。そんな「事勿れ主義」のままでいると人間関係に関するアンテナがどんどん鈍っていってしまう。人と人の間で生きていく限り、傷付けたり傷付いたりは避けられないのだから、自分が加害者側ならどう謝るべきか?自分が被害者側ならどう乗り越えるか?その時々に応じて、当事者意識を持ちながら繰り返し考えていった方が、人間として成長できると思うのだが。「別に成長なんて考えてない」という者は、当ブログを読む必要もない。



①②③のタイプに共通して言えるのは、10~30年前に、傲慢な上司とか驕り高ぶった取引先とか面倒事を押し付けてくる先輩とかにさんざん嫌な思いをさせられてきたはずなのに、そんな理不尽を自分が変えてやろうと頑張ってきたはずなのに、いざ自分が40代50代になって多少「上」の立場になってみると、結局、傲慢で驕った我儘な人間に成り下がっている、という事だ。最初から高慢不遜な人間などめったにいない。年齢や地位が上がると高慢不遜になっていくのだ。
そして①②③④すべてのタイプに当てはまるのが「宣伝こそが正解であり善」と思い込んでいる事だ。もちろんどんな業界でも、見てもらう・聞いてもらう・知ってもらう事で売り上げや収益に繋がる。そーゆー世界の中だけでやって来た人は、とりあえず何でもいいからメディアに乗せさえすれば相手の為になる、と決めてかかっている。そーゆー決め付けが相手の負担になる等と考えた事もないのだろう。「沈黙は金」という格言の意味を真剣に考えたことがないのかもしれない。これまで通用してきた常識を覆すのはなかなか難しいし、今はまだそんな気力もないので、この言葉で第5綴を締めくくりたい。
【地獄への道は善意で舗装されている】
この最低な悪循環は、たった一つの方法で終わらせることが出来る。私が死ねばすぐに収まる。

もちろん読者の皆さん全員がこの4タイプに分けられる、という話ではない。私の視点から見て取れた何人かを類型的に書いてみただけだが、別に面白半分でやっているわけではない。こうする事でより冷静に人間観察が出来る、という事だ。大変申し訳ないが、このブログを読んでいる読者やぬえのなくよに関わる人間は、私に観察され分類され私の頭の中に蓄積されるデータの一部になっていく可能性が高い。「そんなの嫌だ」と思う人は、当ブログを一切読まずに関わらないようにするか、読んでいない部外者の振りをするか、しかない。その点ご了承願いたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました