「私」の始まり    〚第1綴〛

私は小学校五年生の途中からイジメを受け始めたが、きっかけはよく覚えていない。
きっと私の方から相手をイラつかせるような一言を言ってしまったのだろうが、人をイラつかせる言葉を全く発しない小学生など、そもそも居るはずがないので、イジメのきっかけなど気にしてもしょうがない。
40年以上前のあの時代、一般的にイジメの形態としてはクラス単位だったというイメージがあるのだが、私の場合は他のクラス・他の学年にも知れ渡っていた。通学時は集団登校が原則だったので朝はそれほどでもなかったが、夕方の帰り道では全く顔も知らない他学年の生徒が二~三人連れ立っては私を横目にクスクス笑いながら追い越していくというのが、毎日ではないにしても、よくある光景だった。
小学生最後の一年数ヶ月を私はほぼ一人で過ごしていた。

そして中学に上がって一週間も経たない内に、状況は何も変わらないと気付いた時、私は絶望した。
中学一年時の担任の女性教師は「なんで仲間外れにするのをやめてくれないのかしら?クラス全員でちゃんと話し合ったのに」と私に直接そう言って残念そうな表情をして見せた。
私は相変わらず淡々と毎日をやり過ごした。
そして中学二年に進級した第一日目、始業式の日。その男性教師がやって来た。
顔はちょっと面長で体型もひょろりと背が高く目鼻立ちがハッキリしていて、動物に喩えるなら間違いなくキリンだ。そのキリン、いやN先生は自分の名前を黒板に大書すると自己紹介もそこそこに、いきなりこんな話を始めた。
「皆は'濡れ場’って言葉を知ってるかな?いや中学生だから知らなくても当然なんだけど、何ていうか、映画とかドラマとかの男女のラブシーンの事なんだ。どう説明したら分かってもらえるかな?……どう説明しても分かってはもらえないと思うけど、この濡れているとか湿気のある感じって人間関係を作っていく上で、すごく大切なんじゃないかって俺は普段から思っているんだ。だからね、一年後には、このクラス全員が濡れた関係になればいいと思うし、そういうクラスを目指すって事を宣言しておきたいんだよね」
―――教室内は、何とも説明しがたい沈黙で満たされた。ほとんどの生徒はどう反応したものか困っているように見えた。そうこうする内に「もう始業式の時間だな、じゃあ体育館に移動~」というN先生の声と椅子から立ち上がる時のギイギイという耳障りな音で、あっという間にその重たい沈黙は掻き消えた。
私の記憶はここでパッタリと途切れている。

もちろん40年近く前の出来事なので、あの時 N先生がどんな雰囲気でどういう言葉を使ったのかは8割方忘れてしまっている。だが私の妄想・空想は極力排除して思い出せる範囲で、あの時の空気感を文章で出来るだけ再現してみたつもりだ。
今時の中学校でこんな発言をした事がバレたら、何らかの処罰を食らうのは間違いないし、これを読んでいる人のほとんどは
‵とんでもない変態教師‘と思っているかもしれない。
だが当時の私には、イヤらしいとか気持ち悪いなどの印象は皆無だった。
その代わりにあったのは、「この先生は’私‘がこのクラスにいるから担任を引き受けたんだろうな」そして「どうせ何をしても無駄なのに」という、14歳ながらすっかり冷めきった推測と諦めだけだった。

……結局その後どうなったのか。それを説明するには時間を5ヶ月程すっ飛ばして秋から始める事になる。途中経過も書ければいいのだが、イジメの記憶は私の脳みそにとって、よほど不要か排除したいモノらしく一切の記憶がない。
夏休みも終わり二学期が始まった9月上旬のある日、何の前触れもなく突然、私は気が付いた。
「あれ?……私、もう何日も、ずっとイジメられてない」ハッとして顔を上げ思わず周囲を見渡したが、何か特別な物が見えるはずもない。ド田舎の普通の中学校の普通の教室内の日常的光景があるだけだ。私は混乱し何が起こったのか全く理解できないまま、数日は用心し続けた。「こんなのは偶々だ。どうせまたすぐに、あのしんどい毎日が戻ってくるはずだ」……そんな私の用心こそ、全くの無駄に終わった。私のしんどい日常は私が気付かない内に、平穏な中学校生活にすっかり取り換えられていた。五十年以上生きてきた中でも、最も苦しい3年余りの日々は、あっけなく唐突に終了した。

どんな方法を使ったのかが分からないとはいえ、N先生のおかげでイジメが無くなったのは間違いない。その点は分かっていたが、私はその後もN先生にお礼を言ったり、どうやってイジメを収めたのか根掘り葉掘り尋ねるような行動には出られなかった。N先生も、私をイジメていた生徒も、イジメていない生徒も、全員に無理がなく自然な状態で、イジメがあった時期とイジメ消失後との「境い目」が全く分からない。本当にただ忽然とイジメだけが消えてしまった事態に、どうすればイイのか分からなかったのだ。
こういう時、自分が頭の悪い子供で本当に良かったと思う。中途半端に目端の利くタイプであったなら、N先生にベタベタと纏わりつくウザい生徒に成り下がっていただろう。出来の悪い脳みそが良い効果をもたらす事もある。私は、おそらく鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしながら、イジメがあった時期と同様に淡々と、だが少しずつ「イジメられない日常」に慣れていった。

この話には続きというか後日談のようなモノがある。といってもN先生が担任として受け持ち中の、でも気楽な中学2年生もそろそろ終わりが見えてきた1月下旬頃の事だ。
ふいにN先生が「お前ん家にも年賀状、届いてるよな?」と私に聞いてきたのだ。だが小学校時代から友達がいない私にそんなもの来るはずがない。「いえ、来てません」’1枚も’と続けて言いそうになるのをすんでの所で飲み込んだが、そんな私の様子には全く気付かず、N先生は「えっ、ホントに?…そんなはずないんだけど、あれ~おかしいな?……ちょっと待っててくれな」とだけ言ってその場を離れた。
そして…、更に1ヶ月程が過ぎて、そんなやり取りもほぼ忘れかけた2月下旬、再度ふいにN先生が「ハイ、これ」と言葉少なに1通の封筒を渡してきた。
封筒の中には1枚の年賀状が入っていて、その裏には12月下旬に終業式が済んだ後、このクラスの生徒全員とN先生を加えた40人で撮った集合写真がプリントされていた。その写真の下には、お世辞にも達筆とは言えない筆跡で、こう書かれている。
【この年賀状は、S60の1月1日に配達されたものである。生涯疑ってはいけない。S60.2.26】
――何年か大人をやって来た者なら誰しも経験があるはずだ。「コレだけは忘れちゃいけない、絶対に大切な書類だから」などと念には念を入れて、いつでも目に付く別の場所に置いておいたばっかりに、却ってその書類だけを忘れるという、あのドジを、N先生は、やってしまったのだ。よりによって私あての年賀状で。”おいおい、あんたがそういうドジを踏んだらダメじゃん”と突っ込みたい気持ちを抑えながら、泣くのか笑うのかそれとも怒るべきなのか、しばらく考え込んだような記憶がある。…いや当時の私に「突っ込み」などという概念は無いはずだ。後年、何度か思い返す時に混ざってしまった後付けの記憶も含まれているかもしれない。


子供の頃、将来何になりたいか。私にも人並みになりたい職業は幾つかあった。だが学歴が低い、女性には難しい等の理由で諦めたものもある。でも、それらは結局「成れなかった」のではなく「成らなかった」或いは「成る必要がなかった」だけの事なのだ、と今は思っている。
私が心の底から、ずーーっと成りたかったモノ。それは職業ではなかったのだ。私は「N先生の真似をしたい」「N先生みたいな大人になりたい」その希望・願いは何十年か経つ内に、いつの間にか”欲望”と呼べるほど強烈なモノに変化していたのに、私はその変化に気付かないまま、あーだこーだと試行錯誤や回り道をしながらも、無意識に、本能的に、手探りだけは続けていた、という事らしい。だって私はその欲望を満たせるまで、既に、あともう一歩の所まで来ている。

コメント

  1. nueno-nakuyo より:

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