またしてもブログが書けないまま半年以上が経ってしまった。
だが今回は申し訳ないという気持ちがほとんどないし、お詫び等もする気はない。現時点では、うまく説明できないというか色々と考えるべき事が多すぎるし、(まだまだポンコツ脳での推測ではあるが)読者側もそれぞれの価値観・思惑・立場などによる考え方の違いや温度差があるようで、何をどう書いたとしても、だれか又はどこかにズレや行き違いが生じてしまい、適切さにかけると思う。そして「ぬえのなくよ」と「読者一人ひとり」の間にある意識のズレに気付きはじめたのは、この1~2ヵ月の話であり(関係なくはないが)、ブログがここまで遅れた理由・原因の大本は、…当然ながら半年以上前に発生している。
‘彼女’は死んだ。後悔しようが反省しようが、戻っては来ない。詫びるべき相手がいない。
「もう半年も経つのにまだ引きずってる」とか「うつ病持ちは何でも悪い方へ考えがち」とか、なんと思われようとも構わない。‘彼女’の死に関して、私は、私に責任の一端があると考えている。この6ヵ月あまり「‘彼女’が死んだのは確実に私自身の手で書いたこのブログがきっかけだ」という事実について考え続けた。今回はその内容について書いておく(ほとんどの読者は忘れていると思うが、当ブログは‘ぬえのなくよ’の備忘録でもある)。
人間は皆「生きて行く(生きて居られる)理由・原因・方法を幾本もの、目には見えない糸のような状態で持っている」のだと思う。その人が10歳なら10年分、50歳なら50年分の糸を常日頃から持ち歩いているのだ。糸の本数はもちろん、一本ごとの太さも色々あって個人差が大きいはずだが種類・内容は似通っている部分もあるはずだ。
食事・水分・睡眠の摂取、衣食住を整えてくれた親や保護者、教師・友人・燐人・親類縁者から名前も知らない偶々通りかかった人まで、それまでに関わった人々から発せられた言葉・習慣・考え方・価値観、その他にも見聞きしてきたあらゆる光景・映像・事象、その時々で感じた五識・感情・雰囲気、自分の言動が周囲に与えた影響・周囲の言動から自分が受け取った影響、何年にも渡って変わってきた或いは変わらない自分の感情・感覚・行動・価値観。
言葉や文章で表現するのは無理と思えるくらい、自分の体内と体外に存在する、ありとあらゆるヒト・モノ・コト等の中から無意識又は意識的に選び出した「よすが・手がかり」と“糸”のような形で繋がっていて、糸の数が多く一本一本が太いほど生きるのが楽になったり楽しかったりするのではないか。そんな風に、この数ヵ月で考えるようになった。
未だに私は「‘彼女’のブログ」の大半に目を通せていないし、もうしばらくは、目を通す勇気や気力は持てないだろう。こんなに不用意・情報不足なまま推測で「‘彼女’のこれまで」に触れたくはないのだが…、とにかく今回は「‘彼女’の死」について書いておかないと次の段階へ進めない。私にとって必要なので、私自身の為に書いておく。
私は精神医学も心理学も専門的分野の知識はないが、多少なりとも「自分を知っている」私が、ほぼ間違いないと思うのは「10歳代の人間関係(糸の形状・繋ぎ方)がその後の人格形成・生きる方針の土台となる面が大きい」ということだ。もちろん個人差が大きいので土台が歪んでいても脆い部分があったとしても、なぜか中身の詰まった中間層を作り出し着実な上層部へと重ねていける者がいる一方で、あんなに頑丈な土台があったのにどうして身を持ち崩してしまったのか、というタイプもいる。
一人の人間が持つ糸の中には他者から見て分かりやすい糸もあれば、理解できない糸もあるだろうが、必ずしも理解できる事が良いとも限らないし、敢えて理解しないことが新たな糸で繋がるきっかけとなったりもするのではないだろうか。
そして、どの糸を選び大切にするかしないか、どれを捨てるか、再度取り戻すか、は人により様々だし、また自由であるべきだ。だが自由である分、間違いも多いはずで、無駄な糸・持っていてはいけない糸を後生大事に持っている者も大勢いるはずだ。自分の為にならないと気付かずに、或いは気付いていながらダメな糸を持ち続けていたり、逆に持つべき糸を間違って切り離してしまったりすると、ストレスを多めに背負い込んだり・周囲に巻き散らしたり、イジメ嫌がらせをしたり・されたり、病気になったり大切な人を死なせてしまったり、犯罪との繋がりを断てなかったりして自分で自分の首を締め続けてしまう場合も多いと思う。
そういう意味では‘彼女’の糸の選び方は秀逸で天才的とも言えた(判断力や注意力が働かない状態でも選び方・繋がり方が適切だったから‘彼女’は自活できていたのだ。精神疾患を幾つも抱えた人間の一人暮らしがどれほど困難であるか理解できる者は少ない。そういう私も詳細な事例を知っている訳ではなく、あくまでも私自身の‘うつ病’のみの経験を元にした推測に過ぎないが)。30年以上に渡る闘病期間中の試行錯誤と研鑽の結晶だろう。
おそらく、ではあるが‘彼女の成長段階での家族・友人との糸は少ないか皆無に近かった、或いは捻じれていたか汚れていたか…。それでもお構いなしに‘彼女’の土台はスカスカなのに、無理をしながら成長後に少しずつ増やした糸で立派な居場所を作れてしまった、‘彼女’の生命力や精神力に任せて強引に。無理やりに強引に作ってしまったから、その後に表れた不具合が数種類の精神疾患として‘彼女’本人を苦しめてきた。
そんな無理を何年にも渡って押し通せる人間はめったに居ないし、子どもの時から才能を発揮し活躍するという特殊な状況で暮らしてきた‘彼女’の気持ちを理解できる人間はほとんど居なかったのではないか(クドいようだが現時点での私個人の推測である)。
しかしどんなに孤独で糸が少なくても‘彼女’の生命力は頑として「死」を受け入れなかった。生きている以上闘い続けるしかない。そうして必死になって恥も外聞も常識もかなぐり捨てて闘っている内に、とんでもない強さを身に付けてしまっただけでなく幾つかの精神疾患を快方に向かわせるまでに漕ぎつけた(精神疾患の中でも最も治療が難しいと言われる摂食障害が快方に向かったからこそ、最終段階として‘うつ病’が台頭してきたのでは、と私は考えている。これも個人的推測なので間違っているかもしれないが)。
だが最後に残った‘うつ’という病気は‘彼女’がこれまで闘ってきた精神疾患とは、また違う角度から闘わなくてはならない。…そして、そんな事態に困り果てている所へ、‘ぬえのなくよ’がブログを使って呼び掛けてしまったのだ。‘うつ’に詳しい割には、回復途中で自分の弱さ・愚かさ・不安定さを自覚できていない“私”が。
もちろん私は‘彼女’に対し「助けたい・病を軽くしたい」と思ったから「私なら出来る」という自信もあったから「支援したい」と呼び掛けた訳だが、そもそも「助けたい」とか「他人の病を治す自信」とか、そんな考えを持ってしまったこと自体が間違っていたのだ。
私は〚第9綴〛続・矛盾の最後の段落で、既に自分で書いているのに。「患者には関わらない」「見捨てるくらいの覚悟で放っておく」「自分のやり方で治す(彼女は彼女のやり方で治す)」どれも自分では分かっている・身に付いていると思っていた。
でも“私”より精神疾患に苦しみ“私”より真っ当に闘っている‘彼女’を見つけた途端、これまで何年もかけて積み上げてきた“私”の価値感・判断基準の「糸」を“私自身”が切り放してしまい、‘彼女’も同じ病気だから気持ちが通じるはず、などと自分勝手な思い込みをしてしまった。それでいて去年の六月頃の時点では「‘彼女’を助ければ“私”の優秀さを多くの人に見せ付けられる」という功名心もあった。私は‘彼女’を利用しようとしていたのだ。
更に、つい最近気付いたが「賢いあなたなら分かるはず」とか「こうすればもっと良くなるのに」等という“決めつける言動”も、一見、相手を褒めて相手の為を思っているようだが、実際には上から目線を押しつけているだけではない。充分に相手を馬鹿にしている証拠でもある。「同じ病気だから私の助けたい気持ちが分かるでしょ?」「‘貴女’の為を思って言ってあげてるのに」という自己中心的で相手を見下している自分に気付けなかった。
〚第8綴〛矛盾に書いた「プラス感情の搾取」をやめられない「無神経な出しゃばり」に成り下がり「偽物の善意」を‘彼女’に向かって振りかざしていた。あの上辺だけの笑顔を振りまき自分の利益しか考えていない下らない輩と、完全に同じ行動をとっていたのだ、“私”は。
そして‘彼女’は「この“ぬえのなくよ”って人は信用しない方がいいかも」とすぐに気付いた。だから私の呼び掛けに反応しなかったのだ。しかし反応しないという行動は実践できても、‘彼女’は既に“ぬえのなくよのブログ”には注目し気になってしまっている。「無視すべきという理性」と「ブログの内容は気になる、という感情」の矛盾に陥ってしまった事で‘彼女’は判断力・注意力を余分に使ってしまった。
‘彼女’の鉄壁の強さは‘彼女’を利用し喰い物にしようと企む100%真っ黒な輩に対して有効な物だった。しかし“私”のように‘助けたい’という気持ちに嘘はないが中途半端に“黒っぽさ”も見え隠れしているタイプには、どう対処すればいいか、迷いや躊躇が生まれてしまった。その迷いや躊躇が判断力・注意力を弱らせ「水分・栄養食の摂取が遅れた」或いは「冷房をつけ忘れた」のでは、と私は考えている。
30年以上も精神疾患と闘っていれば、半端ない衰弱と疲労が積み重なっている。ましてや‘彼女’の場合は複数の精神疾患があり、中でも摂食障害による栄養不足状態の上に‘うつ’という睡眠不足も重なった。そこに加えて、水分の補給が僅かな時間でも遅れたりすれば、アッという間に重篤な熱中症になってしまう。ここまで悪条件が重なると、気温がそれほど高くなくても関係ない(というか昨夏は梅雨の時期にしては変な暑さだった…) 。
おそらく‘彼女’は判断力・注意力の低下によって自らの生命維持の手段を採るのを間違えた或いは遅れたのだ、としか私には考えられない。そしてその判断力・注意力の低下を招いたのは、何度考え直してみても、私のブログに気を取られたから、としか思えないのだ。
‘彼女’は生命力・生存本能に対して鋭い感覚を持っていたから、きっと気付いたはずだ「自分はもう生きられない」それから「ぬえのなくよのブログを読むべきじゃなかった」と。そして、そこまで気付いた上で“私”を責めたり恨んだりせずに速やかに’死‘を受け入れたんだと思う。‘彼女’は真の強さを持っていた。本当の強さを持っている人間でなければ、こんな最期は遂げられない。
……そして‘彼女’を亡くして、何日も経ってから、ようやく、自分の愚かさに気付いた“私”。私は何をやっていたんだろう?今となっては「情けない・恥ずかしい」と文字を打ち込むことすら、虚しくて、みっともない。これまで私は自分のブログを何度となく読み返してきたが、〚第16艇〛と「貴女」へ【その2】は読み返す事ができない。ついさっき思い切って「貴女」へ【その1】を覗いてみたが…、間抜けでズレまくった醜悪な文章としか思えない。
それでも、やはり文章を書くしかない。今の私には書く事しか出来ないし、このブログの継続は私の暮らし・生きがいの一部であり無くてはならない糸であり権利・義務でもある。‘彼女’の死のきっかけを作った私が権利という単語を使うのは僅かに抵抗を感じるが、死ぬ訳にはいかない以上、生きて闘い続けるしかない。そして私の場合「闘う相手」というのは基本的に自分自身だ(自分以外の相手との闘いは2割もないと思う)。自分に向き合い、自分を知る。どんなに弱くて愚かで何度も間違いを繰り返す使えない奴であっても、プラス感情の搾取をやめられずに無神経な出しゃばりに成り下がり偽物の善意を振りかざす輩と同族・同一だとしても、ほんの0.1mmでもいいから穴をあけ隙間を作り抉じ開けてでも、極わずかな違いを見出していきたい。何度考え直しても、ああいう輩と完全に同じままで生きていくのだけはイヤだ。その気概を忘れたら私の存在価値なんて、どこにも無くなってしまう。‘彼女’の死に責任を感じるなら、自分の弱さ愚かさ間違いを少しでも減らしていく。「それしか出来ない」んじゃないか、と今は思っている。
そんな、地味で平凡な(人から見ればツマラナイ)結論しか今の私には出せないので、以下に書く事も読者には私個人の単なる「繰り言・愚痴」と受け取られるかもしれない。しかし現在も私は‘うつ病患者’であり治りかけの状態だ。どこからどこまでが‘うつ症状’で、どの辺が正常と呼べるのか分からない部分もあるので、‘彼女’の死後、私がどんな心境でどんな状態だったのかを記録しておこうと思う。

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