矛盾            〚第8綴〛    

第3綴の冒頭に、小学4年以前の記憶はほんのわずかで薄らとしたモノしかない。と書いたが、そのわずかな記憶の中に、現在の“私”を形成する上で一番中心の「軸」となっているモノがある。

小学4年の一時期だと思うが、ほぼ毎日、私は奇妙な現象に見舞われていた。
学校から家に帰って来て「ただいま」を言うと《《違う。ここはお前の家じゃない》》という声が聞こえるのだ。…いや、‘聞こえる’というより、直接頭の中に響く感じで、もしテレパシーという物が実在するなら、きっとこんな風だろうと思わせるような不思議な、それでいて自然な声だった。
……念のため断っておくが、現在の私の精神状態は正常と言える範囲内にあるという認識で、これを書いている。「‘うつ’が悪化して、まともな文章が書けなくなったのでは」と心配する人もいるかもしれないが、私としてはコレまでと同様に普通に事実を書いているという認識なので、このまま書かせて頂く。
とはいえ最初の内は「なに?なんだよ?この声」と周囲を見回したり、気が狂うとはこういう事なのかと不安になったりもしたが、どー考えても空耳ではないし、自分の頭がおかしくなったとも思えない。「ただいま」を言った後の数秒間以外、日常生活に不都合な点は特にない。
ただ、やはり気味が悪いので「ただいま」を言うのをやめてみた。すると例の‘声’は聞こえない。だが母親からは怒られた「ただいまくらい言いなさい。ビックリするでしょ」…で、仕方なく次の日「…ただいま」というと、やはり繰り返される《《違う。ここはお前の家じゃない》》の声。あまりにも毎日続くので途中からは諦めを通り越して空想を楽しんだりもした。「私だけが授かった特殊能力?…でも何の役にも立たないよなぁ」
そうこうする内に母親がパートに出る事になり、晴れて(?)鍵っ子となったおかげで「ただいま」を言う回数も激減したし、その後はイジメ問題もあって気にする余裕も無くなっていったのだろう。

あの‘声’の正体は何だったのか?今ならはっきり答えられる。アレは私自身の「生命力・生存本能」の声だ。本能という表現で分かり難ければ「深層心理」と言い換えても良い。一般常識や固定観念に汚染される前の、私の中の本能的な何かが「ココに長く居てはいけない」「血が繋がっている人間でも信用してはいけない」と私の表層意識に訴えていたのだと思う。
自分自身の‘内なる声’などとは思ってもみなかったし外部から話しかけてくる男性の声と思い込んでいた為に《《お前の》》と勝手に頭の中で変換してしまっていたが、実際の所は「ココは“私(が帰るべき本当)の”家ではない」と自分で自分に言い聞かせていたのだ、と思う。
……容易には信じてはもらえないと思うが、アレが自分の中の、というか人間なら誰もが一生持ち続ける「矛盾」を認識した最初の経験だったのだろう。

思い返せば、かなり私は扱いにくい子供だった。
親がたわいも無い嘘を言って子供をからかう、というのは大半の家庭でやったことがあるだろう。「お前は本当はウチの子じゃない。橋の下から拾って来たんだ」という、よくある悪ふざけだ。
大抵は、子供が不安がって泣いたりする様子が面白くてやるのだろうが、私の場合、記憶が確かなら第一回目の時点で「うん。本当にそうだったらイイのに」という反応をしていた。実際に言葉として発言したか、表情や態度だけだったかどうかは忘れたが、明らかに親がシラけた顔をしたのは覚えている。
高校3年の頃には「いつか父親は、母親が原因で死ぬだろうな」と予測していたし、家を出ようと決めたのは、20歳の時、家族に対し強烈な嫌悪を感じたからだ。
そして30歳の時、私の中の「一般常識や固定観念で出来た家族観」は一通の手紙をきっかけとして少しづつ崩壊を始める事になる。「つくば万博」のイベントの一つ「ポストカプセル2001」により、1985年(中学3年時)に、将来の自分宛てに書いた手紙が、2001年の正月に「実家に届いている」という連絡が来たのだ。ただ、その頃から実家とは距離を置き始めていたし、どー考えても手紙にはイジメの影響が残っているはずで、正直、読みたくないし面倒くさいだけだった。それでも自分が書いたモノなのだから自分の目で確認すべきと思い、電車を乗り継いで実家へ行き封を切って読み始めて、私は愕然とした。予想に反してイジメを想起させる言葉は一切書かれていなかった。書いてあったのは、家族にもクラスメートにも恵まれて毎日楽しく過ごしているという「完璧な綺麗事」だけだった。しかし綺麗事が完璧すぎた為に、絶対に隠し通すべき‘本音’があった事をも思い出してしまった。
といっても、その時点では、あまりにもヤバすぎると判断した私の中の理性と一般常識が‘本音’の詳細までは思い出す事を拒否してしまったようだ。その証拠に私は一週間も経たない内に読み返すことなく、その手紙を燃やして処分してしまった。あの手紙を取っておいてブログのネタとして活用できれば、「ぬえのなくよ」の名前にもっと箔をつける事も出来たかもしれないのに(悔)。

「誰にも話してはいけない」と思い込んでいて、私自身30年以上忘れていた、中学か遅くとも高校の頃には私の頭の中に明確に描かれていた脳内イメージ映像がある。
――ホラー映画かサスペンスドラマの様なカメラワークだが、撮影場所は、狭くて使いにくい間取りで常に散らかっている私の実家である事は間違いない。家の中は真っ暗だが、白い壁が真っ赤な液体でベッタリと汚れているのが見えていて、同じ液体が床のあちこちにも広がっている。人影もあるのだが全員が倒れていてピクリとも動かず、動き回っているのは“私”だけのようだ…。←現在では、このイメージ映像を思い浮かべると、何とも言えない爽快感がある(笑)。

「最初から私には家族なんか居なかった」という価値観をほぼ100%自分のモノにできている現在なら、こんな危険な妄想を何の抵抗も躊躇もなく、こうして公表することが出来るが、普通の中学生や地味な主婦でいる事が当然と思い込んでいた若い頃には、何としても隠し通そう・考えないようにしよう、とするのは当然の判断だったろう。しかし私の場合、「本音・本能」と「建前・世間体・一般常識」の間で板挟みになる内に‘うつ’という病を呼び込んでしまったが、病の中でも何だかんだと試行錯誤しながら、そして世の中の一般常識が少しづつ変わっていくのを見逃さずに必要な情報(毒親という言葉は世界の固定観念を塗り替えたと思う)を探し続けた事で、自分の異常さが実は正常である、と確認する事が出来た。子供の頃から大人になるまで、ず~~~っと持ち続けた嫌悪感の方が正しい、と証明・納得する事が出来たのだ(あくまでも私の場合は、だが)。かなり年月は掛かっているし決して楽な道ではなかったが落ち着くべき所へ落ち着いた、かなり幸運な事例という気がする。二~三歩間違えれば‘家庭内殺人鬼’なのだから。
だが、こういう妄想を持ってしまった普通一般の人は、自分を恐れ、否定し、完全に無かった事にしようと考えてしまう。自分のマイナスの感情を隠そう・見ないようにしよう、とする気持ちは分からなくもないが、それが間違いの元となってしまう。自分の本音を完全否定してしまうと、全員とは言えないが、かなりの高確率でストレスが溜まって精神や日常生活に問題が出る、と思った方が良い(私の個人的意見だし、何が本音かという判断も人によって難しいだろうが)。
もちろん、どんな妄想も“ヤバすぎる範囲”は自分の頭の中だけに留めておき、「実行には移さない」という意思を持ち続ける努力が必要なのは言うまでもない。だが、そのヤバすぎる範囲と他人との境界線の引き方を、ほとんどの人間は、やはり、間違えてしまうから人間関係に支障を来したり、病気になったり、犯罪という形で現れてしまうのだろう。

この一ヶ月、私としても色々考えてはみたが、もう限界をかなり超えている。これ以上の我慢はやはり美徳とは言えないと思うし、既にストレスが症状となって表れている。
なにしろ現職の精神科医が、自ら、率先して、積極的に、喜色満面で、患者(私)にストレスを流し込み続けている状態なのだ。精神疾患の知識のない人々は尚更「プラス感情の搾取」をやめられないのも当然なのかもしれない。無神経な出しゃばりがドコにでも普通にいるという事をすっかり忘れていたし、自分の善意が偽物だと気付けない人間がこんなにもいるという事に気付けない私も迂闊なのだが。
…が、千歩譲って私がいちいちク○真面目に対応してしまうのが却って良くないのかもしれない、とも思うので律義に頑張るのをやめる事にした。
つまり、YouTubeやTVerを含む全ての配信番組や“個人宣伝”情報の視聴をやめる事にした。他人と関わる事も全面的に断ち切って、空いた時間を自分の為に使おうと思う。この17~18年間で失われた知識・情報・経験等の総合的な記憶回復を図りたいのだ。
もちろん、ブログ文章作成と記事UPは変わらず継続する以上、パソコン・スマホも必要不可欠なので、多少は何らかの形で個人宣伝を見る機会を完全に停止することは出来ないが、「この人物は、私が望んでいない個人宣伝情報を強制的に見せつけたいのだな」と私が判断した時点で、私の個人的な「無神経・出しゃばり人名簿」に加える物とする(既に結構な人数が書き込んである)。もちろん、この名簿をブログ内でも世間に向けてでも、公表するような迂闊な真似(あんな阿呆な輩と同じ行動)はしないが、いずれ何らかの機会に何らかの形で、「個人的」に活用させて頂く場合もある、という事はお知らせしておく。
言い訳や謝罪をしようと考える人は自由にやってもらっても構わないが、私は見ないし、この状況で言い訳や謝罪で何とかなると考えている時点で「はぁ?」と思うし、「こんな筈では…」とか言い出すタイプほど同じ間違いを繰り返すパターンは‘あるある’なのではないだろうか。
また一切視聴しないのだから、これからはブログの中にどんな言葉を使おうとも、それは偶々・偶然の一致である事も一応書いておく。というか、これまでにも勝手にぬか喜びしているなぁ、というのも少々あったのだが、いちいち取り上げるほどの事でもなかったので…。

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