ここからは、1か月近く前からの懸案事項であった「‘感情’とは非常に個人的なモノだ」という一文の訂正について書きたいのだが…、現時点では100%納得できる答えが見つかった訳ではない。
ただ、これ以上引っ張っても意味がないし、今の時点で私が書けることを書いておいた方がイイ、という気がする。
こんな大切な事をなぜ間違えたのか?一番気分が悪いのは、自分に対する自己嫌悪の部分が大きいが、ソコにはやはり世間的なイメージ、世の中に蔓延っている先入観や一般常識に‘汚染’されている自分のふがいなさも含まれている。だがそれと同時に、これほど抽象的な疑問について自分の間違いを自覚できている‘私’を褒めてやりたいとも思う。もちろんソコは「ご指摘」を頂いたからこそだし、このタイミングで、ほぼ正解と思える状況と偶々鉢合わせた、という事もあるのだが。
ブログを書くために出来るだけ早めに済ませるべき大事な用件が一つだけあり、それが出来ていない事がずっと気になっていた。押し入れの奥から、さして大きくもない段ボール箱を引っ張り出す気力が湧いたのが3月頃、4月中頃には敢えて目に付く邪魔な所にその箱を置いて、自分で自分に圧力をかけ続けていた。
箱の中には三千枚以上はあろうかという大量の新聞の切り抜きが入っている。私が子供の頃、家でも新聞を取っていたが、高校時代の後半頃から始めて2012年頃に新聞購読をやめるまでの20数年間、私自身が気になった・興味を持った記事のほとんどを切り抜いて取っておいたモノだ。4月中頃の時点では、この大量の切り抜きはブログのネタとして、或いは自分の記憶の裏打ち(補強)として役立てる為に、欲しい記事をすぐに見つけ出せるように一日でも早く分類・整理しなくては、と思っていたのだが…。
「心に個性はない」との「ご指摘」に気付いたのが4月22日だったが、当然すぐには受け入れられず、「そんなの急に言われても分かんねぇよ」と思っていたし、実際1~2日考えても、すぐに答えは出ないというのが予想できたので、全く関係のない作業で気を紛らわす為に、一旦、難問から逃げる為に‘切り抜き整理’を始めた訳だが、始めて3~4時間ほど過ぎた辺りで、ある一枚の切り抜きに目が留まった。それは医療通訳者育成に取り組む医師を取材したもので600字に満たない、割と小さめの記事だったが、この切り抜きを読んでいる内に、私は頭をガツンと殴られた様な気がした。これこそが正に、いま私が直面している難問の答えだと気付いたからだ。といっても記事の内容そのものはあまり関係がない。
この医療通訳の記事を切り抜いたのは、私が30歳代半ばで既に‘うつ病’持ちになっていた時期だ(切り抜きの95%には掲載新聞の発行年月日を書き込んである)。低学歴で脳みそもブッ壊れている中年女が、こんな高度な能力を必要とする職業について知った所で、何の役にも立たない。私は何の為に新聞の切り抜きを続けているのだろう?こんな情報を溜め込んだ所で、何の意味があるのだろう?と、急に虚しさが湧いた。深く考える事もなく何となく続けてきた「切り抜き作業」に、初めて明確に“疑問”を感じたのが、その医療通訳の記事がきっかけだった訳だが、それでも、その後何年間かは切り抜きを続けている。
子供の頃からずっと、私は勉強も運動も出来ないし芸術方面の才能もない、いわゆる落ちこぼれタイプだという自覚があった。しかし自覚はあっても、何とかそれを覆せないか?自分にも出来る事が‘何か’あるんじゃないか?第1綴の末尾にも書いた様に、やはり私は無意識の内にではあったが常に、‘何か’を探し続けていて、その一つが新聞に目を通す事だったらしい。
私の場合、気になった文章・心を動かされる記事を切り抜く作業をひたすら続ける事で、自分の「心」「性格」「考え方」をいつの間にか作り上げていた。現在の‘私’の中の意識の一部は見ず知らずの新聞記者たちの書いた文章で出来ている、という事に気付いたのが2024年4月25日だったという訳だ。
私自身、「自分を客観視する能力」の、この徹底ぶりはどこから来るのだろう?と何度か不思議に思ってきたが、新聞記事が源の一つだとすれば少しは納得がいく。また一般論としても、普段読んでいる新聞・書籍や習慣的に観ているテレビ・配信番組等によって、「思想・考え方」に傾向が生まれていく、というのは皆さんにとっても身に覚えがあると思う。思想や考え方は心や性格に直接繋がっているのだから。
そもそも人間の脳みそというのは、頭蓋骨や頭皮でガッチリ仕切られ守られているが、情報という面では常に外部に晒され続けている。睡眠時間以外、目・耳・鼻は基本的に開いた状態で視覚・聴覚・嗅覚が常に働いており外部情報を取り込み続けている。誰にでも自意識という物はあるが、「目の前にいる人が怒っているか笑っているか」とか「都会の喧騒の中にいるか森の中で鳥の声を聴いているか」とか「美味しそうな料理の臭いか生ゴミの悪臭か」で感情や感覚はかなり変わってくるし、職場にいる時と自宅に一人でいる時では、脳の働きもおそらく違うであろう事は、誰でも想像がつくはずだ。もちろんどんな状況でも達観していられる仙人の様なタイプもいるとは思うが。
要するに「心」というのは外部要因でコロコロ変わる。そして反対に、変わらない又は変わりにくいのが「身体」という訳だ。成長段階や老化・栄養・精神状態などで変わる事もあるが、基本的に髪・目・皮膚の色や内臓・骨の丈夫さ等の体質は急激に変わる事はほとんどないし、体力や知能を向上させるにはそれなりに手間暇がかかる、というのは1ページ目にも書いた通りだ。
私の場合、ストレスが顎関節症という症状で現れたが、専門家の意見を受けたタイミングの良さと歯は出来るだけ大切にした方がイイという何となくの知識があったから最悪の事態は免れた。顎関節症を持つ人はかなりの人数がいるはずだが、適切な処置をすべきと気付いた人ならともかく、気付かずに放っておいた人は頭痛や肩こりに悩まされ、長期に渡る不調で、常に不機嫌で扱いにくい性格になってしまうかもしれない。良くも悪くも身体が心に影響を与え、心掛けや知恵の有る無しで、身体を良くする事も悪くする事もある。
自分がどういう人間になりたいのか?願っても叶わない事は多いが、「自分の心や身体をどう扱うか、自分にとって適切な情報をどう見つけるか」で状況は結構変えられると思うのは私だけだろうか?
何やら、上手くまとまった文章になった感はあるが、2ページ目の最初に書いたように、自分としては完全に納得できたわけではない。あまりにもスムーズに上手くいった時というのは、当初気付かなかった問題が後から出て来るパターンも結構ある。
そもそも私は、なぜ「人の役に立つ」に拘っているのだろう?おそらく単なる自己満足なのだろうとは思うが、今のところ、人の嫌がる事を喜んだり犯罪に手を染める事もなく自然に真っ当な方を選び取ってきた、その大本にあるモノは「個性」とは呼ばないのか?という疑問があるし、先入観や一般常識以外にも‘感情は個人的なモノ’と思い込んだ理由が他にもあるような気もするのだが…。まぁ、その辺はこれからも考えていく事になるだろう。
何となくスッキリしない部分もあるが、現時点では、これ以上書ける事もないのでココまでにしておく。
では誠に恐縮ではありますが、今回も宣伝をさせて頂きます。
どちらも食べ応えのある食材と信じております。しっかりとよく噛んで味わって楽しんでみて下さい。
また、今回も、ご自分の胃袋や冷蔵庫と充分に相談の上での購入をお願いします。
しつこい様ですが無理に買って頂く必要は、全くありません。
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