今回はまず、お詫びと訂正から始めなくてはならない。
第2綴の中ほどに「精神疾患も病気である以上“何かおかしいな”と思ったら専門の医療機関、精神科・心療内科で迷わず受診すべき」と書いたが、この意見は間違っている可能性が高い。
現在、私は、心理的精神的な不調・2週間以上の不眠・意欲の低下などがあっても、病院へ行くのは出来るだけ控えた方がいい、と考えている。精神科・心療内科に行かずに済むならそれに越した事はない、のである。ブログを始めて1年以上も経ってから、こんな「そもそも論」に気付くなんて、本当に申し訳なく思うし、もっと慎重に書くべきだったと後悔もしている。
「私のブログがきっかけ」となって病院を受診する事を検討している方は、今一度、じっくりと自分の状態を観察し自分に合う睡眠・食事・運動を心掛け、それが出来ない時はどうして出来ないのかを冷静に考える。考えてみて浮かんできた問題を箇条書きにする等、目に見える状態にしてから、手を付けられそうな問題から一つ一つ片付ける。という順番をお勧めする。そして精神科・心療内科での受診は、自分の暮らし・仕事・人間関係に支障が出ていて、自力ではどうしようもないという場合に留めた方が良い。経済的に余裕のある方は服薬せずに済む方法「カウンセリング」も検討してみてほしいが、これは当たり外れ(相性が合うかどうか)が大きいという事も考慮に入れて頂きたい。
また「私のブログをきっかけ」に、既に通院している方は、以下の文章を読んで「自分が通院する意味」について、今一度ゆっくり考えてみてほしい。
もちろん、これほど考え方が、ほぼ真逆に変わったのは理由があるので、その経過を先に説明させて頂く。
私が、こう考えるようになった端緒は、(これも記憶が曖昧だが、おそらく)2024年の春頃にYouTubeを見始めた時だ。現役の医師と思われる一人の男性が「日本で‘うつ病患者’が増えた理由」というのを配信していて、私は「ホントかな?」と疑いながら見ていた。
その内容は、屋外で日光を浴びて働く人が減った・SNSの普及で他者と自分の生活を比較し落ち込む人が増えた等、現代ならではの理由もあるが、最も顕著なのは、精神医療業界内での‘うつ病’の定義が変わり昔は単なる“気分の落ち込み”で済まされていた部分が病気の範囲と判断される様になった事と製薬会社が抗うつ剤の販売促進の為に「もっと気軽に精神科・心療内科に行きましょうキャンペーン」を張ったのが原因、というものだ。そしてこの配信を見た数か月後にも、この医師とは全く別の、もう一人の医師が、この配信内容と似たような意見をYouTubeで発信していたので、私は、その時は疑心暗鬼になってしまった。‘うつ症状’には「猜疑心が強くなる」というのもある。この医師二人が‘ぐる’になって嘘の情報を流しているように見えてしまったのである。
2~3日経てば、そんな「疑い」は‘うつ症状’の一つかも?と考えなおせるようにはなったが、そうなると今度は自分で自分が信じられなくなって来る。私が見ているのは正しい情報なのか?私の判断力は?私の感覚は本当に正しいといえるか?→この堂々巡りに入ってしまうと、後はもう混乱が混乱を呼ぶ状態にしかならないし、何より当時の私はYouTubeという媒体に慣れていないし理解も出来ていないので、取りあえず、この件は、しばらく棚上げするしかなかった。また、この一連の情報を一旦忘れてしまったとしても、このブログを続けている限り、いずれまた出交わすだろうという予想もしていた。
そして実際には出交わすというより、2024年の後半辺りで、ふと思い出した事がある。
私が、不眠など本格的な‘うつ症状’を意識し始めて通院を開始したのは2005年だが2000~2004年頃の5年間ほどのある時期、あるテレビ局が集中的に’しつこい‘と思えるほど「うつ病」について繰り返し取り上げていた。教育・教養・文化芸術方面を重点的に放送するテレビ局であり、その中でも30分に満たない非常に地味な健康情報番組として現存している放送枠で、だ。20年以上前の時点では私もまだ、この局なら信用できると思い込んでいたし、番組中「うつ病に関する解説」をするのは外部から呼んでいる本物の医師だろうから無責任な情報を電波に乗せるはずない、と思っていた(が、こんな瑣末な事を覚えていたのは、もっと深刻と思える心臓病や糖尿病を差し置いても「うつ病」についての放送を繰り返している状況に「‘うつ’が増えているって事?それにしても…なんか普通じゃない」というモヤモヤした不信感があったからとしか思えない)。
だが半世紀以上も生きていると、どんなに世間知らずで低学歴なバカでも、物事には必ず“裏”があるという事も分かって来る。どんな業種であれ何度も繰り返し同じ情報を一般大衆(不特定多数)に宣伝する理由は一つしかない。儲かる見込みが100%確実だからだ。そしてこのテレビ局は日本で唯一、どんな田舎でも全国的に視聴可能であり、ほとんどの国民への働きかけが出来る局でもある。私は、その働きかけに、まんまと乗ってしまった訳だ。
だが、このブログを読んでいる全員に誤解してほしくないのは「私個人としては精神科に通院し続けて良かったと思っているし後悔も全く無い」という事だ。治りかけて来た現在の脳みそで改めて思い返してみても、2005年の予想外の高ストレス状態では他の選択肢は無かったし最低限の生活の質を守る為には診察料と薬代を払うのが最も適切だった、という判断は変わらない。そして私が’うつ‘になったのは、私の弱さと無知と経験値不足が原因であり、真っ当な大人として生きるには避けられない道だった、とも思っている。
そしてもう一つ、約20年通院した私が断言できるのは、実際に診察している現場の医師のほとんどは「Let’s go精神科・心療内科キャンペーン」の’からくり‘を知らなかっただろうという事だ。どうして断言できるかというと“甘い汁”を吸う輩というのは情報が洩れる事を最も恐れる。情報が洩れて患者(というより客)が減っては意味が無いし、よそのマスコミに取り上げられても困る。そして何より“分け前”が減る状況だけは何が何でも避けたい、と考えるからだ。
そして上に書いた理由だけが原因ではないとは思うが、現在、日本の‘うつ患者’は100万人を優に超えているそうだ。他国に比べて、この数字が多いのか少ないのかは私には分からないが、これだけの患者層が20~30年程で形成されている以上、既に一大産業であり経済の一部になっている状況は否めない。何十年か年齢を重ねた良識ある人間なら分かると思うが、こうなると、この国の構造的な問題であり、「功罪」入り交じってしまって、現在の私では手の付けようがない。
かといって「精神科・心療内科を大勢のブログ読者にお勧めした事実」を特定のテレビ局の責任と言い逃れするつもりはないし、うつ病の知識が広く一般にも知れ渡った“功”の部分もあって良かった等と、お茶を濁すつもりもない。「この問題」は当ブログの存在意義にも関わるし、現時点で、私自身でも調べ切れていないし本質部分に触れてもいないという「もどかしさ」もある。今後も継続して「この問題」については考えて行くと約束する事で、お叱りを受けるのはもう少し先延ばしさせて頂けるとありがたいのだが。
そして「このブログを読んだのがきっかけ」となって精神科・心療内科に現在通院中の方々へ。
「私・ぬえのなくよ」と、このブログを信用して病院を受診したのであれば、本当に申し訳ない事をしてしまった、と思う。本来ならコメント欄に個別に書き込んで頂き、私の方で出来る助言・返答などをしていくべきだが、私自身まだまだ自分の治療と生活で手一杯な状態だ。
今の私に出来るのは、繰り返しになるが、どんな病気でも一番大切なのは睡眠・食事・(できれば)運動、この3本の柱を可能な範囲で「自分に合う方法を探し続ける」事と「‘うつ’を治すには自分を知る・自分が強くなる」と覚悟を決める、この2点をお伝えしていく事だけだ。
もちろん診察料を払っているのだから分からない事は医師にどんどん質問した方が良いのだが、質問に答えない・患者が不愉快になるような発言をする医師は替えてもらうなり転院するなりして全然構わない(信用できないなら今すぐ切り捨てて、とっとと他の病院を探そう)。特に薬を何種類も出す医師にはちゃんと説明を求めた方が良い。薬の説明を面倒がる・訊きづらいような医師なら、他所の病院へ「その薬」を持参して掛かりなおすのも普通に「有り」だ。
ただ薬の服用開始後は、とにかく「個人差」と「副作用」が大きいので「飲み始める前・量の増減・服用終了」は必ず医師と無理なく納得出来るまで相談する。キツい副作用や体調の変化などの問題があったら必ず医師に報告する事も大切だ。そうして自分に合うと思った薬で一定期間飲み続けた薬は急にやめてはいけない事も忘れないように。
どんな場合でも治療選択の権利は患者である「あなた自身」の側にある。
気を強く持って「自分を知る・自分を大切にする」を実行してほしい。
ここからは先月の内に書く予定だった「東日本大震災」について書かせて頂く。
あの日、私は出掛けていて、夫と共に住んでいたアパートへ帰宅途中だった。あの瞬間、私が歩いている道路際の立派な日本家屋の大きな窓が、ありえない角度で大きく揺らいでギラリと日光を反射したのを妙にハッキリと覚えている。「風じゃない…とすると…地震だ」と思った時には既に身体がよろめいていた。
地震後も私が住んでいる周辺では特に大きな被害もなく、ほぼ以前と同様に暮らせたが、地震以前から“家庭”は完全に崩壊していた。精神面はかなり疲れ切った状態で、よく覚えていないが、却って地震が本格的な別居を早めたような気がする「人間いつ死ぬか分からない。時間がもったいない」
しかし夫と離れる為の、その引っ越しが、更に私の精神を滅多打ちにしていくのだが、その話はまた別の機会に。
別居を始めて間もなく夫の父が亡くなった。「別居してるから」とは言いにくいし、私は夫の身内に対して、ほぼ好印象しかない。葬式への参列を即決して、夫とは別行動で電話で教えられた葬儀場へ向かった。
多少‘ぎくしゃく’したり不審に思われる場面もあったはずだが、葬式は(…たぶん)それなりに滞りなく終わった。精進落しの食事の席で世間話をする内に来年の話になった。そして義姉から「私もよく分かってないんだけどね、1年後に一回忌、2年後に三回忌っていうのが法要をする時の決まり事なんだって。こっちから必ず連絡するから来年も再来年も来てほしいんだけど…大丈夫?」と非常に軽い感じでありながらも丁寧な口調で言われた。今から思えばかなり気を使わせてしまったようだが、極端な睡眠不足で当時の私はそんな事に気を回す余裕は1㎜もなかった。余裕はなかったはずなのに精進落しが美味しかったのか(苦笑)、「来年も再来年も」という言葉が私の頭の中に、ポッと一つの案を浮かばせた。
あの震災後も変わらない暮らしを続けていられる事が、どうしても理解できなくて悔しくて理不尽にしか思えなくて、仕方がなかった。もちろん補助金とか人口増加とかが目当てなのは知っている。それでもFUKUSHIMAは“割に合わない”等という生やさしい言葉では、とても足りない・表現しきれない深刻で甚大な被害を被っただけでなく、イジメや風評被害も何年も続いた。
それに引き換え、東京とその周辺はどうだ?電力と安全な暮らしを享受したまま「また停電?テレビ見られないの?」とか空気の読めない言動ばかりで国内情勢をしっかり見ていなかった。そうして、この国は腐敗していった。そして何より‘うつ病’を言い訳にして、腐敗を見過ごしてしまった自分が腹立たしくて気が狂いそうだった(いや、もう既に頭はオカシイのだが…)。
これまで誰にも言った事はないが、私の信条に「後悔しない」がある。後悔している時間が無駄だし、後悔しないためには、あらゆる事態を想定し先手を打っておくか即対処が出来るような心構えが必要だ。後悔する羽目に陥ってしまった場合には、その分量を減らす努力をする、というのが精神面でも良い効果があると思う。
義父の葬儀から1年後、後悔の分量を減らす努力を実行に移した。といっても金も体力もなく知恵も働かない脳みそでは、大した事は出来ない。しかしイジメられていた時期に学んだ最も簡単で誰でも使える強力な武器がある「観る・観察する」ことだ。
義父の法要が済んだ、その足で被災地へ行って実際の様子を自分の目で観て来るくらいなら出来る。もちろん使える費用は僅かだし、無事に自宅へ帰れるだけの体力も残しておかねばならない。取りあえず仙台まで行ってみてから、また考える事にした。ただ、新幹線のチケットを買おうとして財布をのぞき込んだ時ちょっとだけ迷った。仙台まで行く交通費を募金した方がよっぽど困っている人の為になるのでは?とも考えたが、募金しようと考える人は私以外にも大勢いるし、万が一募金詐欺にでも引っ掛かったら意味がない。(ボランティアは別にしても)被災地に直接、足を運んで自分の目で観に行く、なんて事を考える一般人は圧倒的に少ないはずだ。私は20代半ばで既に歪んでおり天邪鬼なので、人がやらない事を敢えて選ぶ傾向がある。
仙台に着いた後は、とにかく海沿いへ行こう、としか考えなかった。記憶力も判断力も落ちているのでどこへ行くべきかなど考えても始まらない。こういう時は直感やタイミングなど、その場の流れに任せるのが一番イイ。路線図で一番海沿いっぽい路線を選んで乗車し、なるべく風景を目におさめた。明らかに私が住んでいる関東地方とは全く違う家並みが続いていた。ブルーシート率が5割増しで崩れた家もあったような気がするが車窓からの見た目は、今ではほとんど覚えていない。どこで降りようか迷っている内に「この電車は次の駅にて折り返しとなります…」というアナウンスがあったので、降車して駅から吐き出される一団の流れに加わった。
駅前にはほとんど人影がなく特に変わった点は見つからない…と思いつつ、ふと視線を上にあげてギョッとした。信号が点灯していなかった。本来、青・黄・赤のいずれかの色で光っているはずの車道用の信号も、赤と青と上下に分かれている歩行者用信号も真っ黒なまま突っ立っていた。周囲に通行人は居ないと分かっていても、何となく自分の動揺を恥ずかしく思いながら歩いていくと、使われていない信号すべての足元にゴミや瓦礫の入り混じった汚泥が寄せ集められていた。片付けても片付けても減らないので苦肉の策なのだろう。三角錐状に汚泥を履かされた無灯の信号機の列は片側2車線の大通りまで、ずっと続いていた。
大通りへ出て少し歩くと電話ボックスがあったが、また、ふと視線を上げて今度は背筋が寒くなった。私の身長の少し上、ボックスのガラス壁面160~170㎝の辺りに、綺麗な横一直線で泥の跡が付いていた。海水がここまで上がって来たという事だ。急に、この周辺の住民はちゃんと助かったのだろうか、と心配になったが、すぐに頭から追い出した。通りすがりの一般人が今更そんな心配をした所で何になる?住民に話を聴こう等とは最初から思っていないが、そもそも人影を全く見ない。人の気配は何となくあるようにも思うし、この駅で降りた人は少なくとも30~40人くらいは居たはずなのだが。
更に大通りに沿って歩いていくと、大通りの向こう側にリサイクルショップの店舗が見えた。その店舗敷地と歩道とを隔てるフェンスが大きくひしゃげていたが、どう観ても交通事故によるものではない。津波で流された何か重量物が当たったのだろう。その店舗の駐車場には車は一台もなく、代わりに店舗内で使えなくなったと思われる商品棚や在庫品をしまう為のケース・引き出し・ロッカー的な物がうずたかく積み上げられていた。
途中で、その大通りに跨る歩道橋があったので渡ってみたが、高い所から見下ろしてみると、この場所が1年前には汚れた海水で覆われていた等とはとても思えないし、普通の街中と大差ないはずなのだが、何かが決定的に違う。動きが無いのだ。人も車も通っていない(いま思い返してみると信号が点かないのだから車で出掛けられないのは当然なのだが)。時間が止まっているような気がしてくる。
歩道橋から降りて、また路面を歩き始めると複合レジャー施設のような大型店舗があった。薄らと電子音が聞こえたように思ったので「あ、あそこならきっと人がいるはず」と何歩か歩き始めた所で、急に思いとどまった。ああいった店にすら誰も客がいなかったら?娯楽施設でさえ開店休業な状態を見てしまったら、と一度考え始めると何やら急に怖くなり、私は手前の角を曲がった。
そして曲がった先は、更に「荒廃」した風景しかなかった。左側には敷地と道路を隔てる為の鋼板の壁が連なり、内側には鉄くずか廃車か何かが山と積まれていた。右側は…いま思い返しても何だったのか分からないが薄黄色の巨大なスポンジにしか見えない物体が大量に放置されていて、おそらく数百メートル先まで、その薄黄色が広がっていた。非常に静かで生命活動が一切感じられない、荒んだまま時が止まっているとしか表現できない雰囲気だった。この先は一人で徒歩で進むべき場所じゃない。何とも表現しにくい居たたまれなさを感じて私はすぐに引き返した。
ついさっき歩道橋で渡った大通りを今度は路面で渡り返して、依然として人の姿は見えないのに人家と微かな生活感のある場所に戻って来ただけで、すごくホッとしたのを覚えている。駅を出てから、せいぜい30分ほどしか経っていないはず、もう少し観て回った方が良いという冷静な判断とはうらはらに、足は勝手に駅方面へ向かいたがった。その道は車線を分ける白線の無い、少し細めの、いわゆる生活道路だったが、そこに並んでいる民家には、白い粉のような物が家の周囲の地面に線を描いて取り囲むように撒かれていた。後で自宅に戻ってから検索してみると、洪水(又は津波)後は家屋に虫が入りやすいとかで防虫の為の薬剤散布、という事らしいが…詳しい事はよく分からない。
そんな住宅街を見ながら歩く内に駅に近づいて来てしまった。こんなに簡単に帰ってしまっていいのか?と迷いながら歩く内に、またしても異様というか尋常ならざる光景に行きついた。私が降りた駅は高架線に改修工事中だったが、その高架部分の真下の空き地に自衛隊の、ほぼ黒に近い深緑色のテントがズラリと並んでいた。100か200か数えきれない程の天幕で作られた暗い海が広がっているように私には見えた。「そうだよ、これが災害、非常事態って事だよな…」と今更ながら、当然の事を、もう既に分かっているはずなのに、やはり理解など出来ていない平和ボケしたままの自分は、その当時の、その地においては、完全に「異物」なのだ。この光景を「異様」と見てしまう自分は、この場に居るべきじゃない。そう自覚して、私は逃げるように電車に乗り込んだ。
そして更に1年が経ち、三回忌法要後、私はまた仙台に向かった。正直、行きたくはなかった。一回はもう行ったんだから、もうイイじゃん。ただでさえ法要に出る分以外に1万円近く掛かるし、相変わらず寝不足だし。「平和ボケしたままの異物」などの記憶は自宅へ戻って2~3日もしない内にすぐに忘れたが、あの荒んだ空気の中にまた行きたい、と思うはずがなかった。それでも私の中の前向きな部分が「絶対行った方がイイって。行かないと後悔するって」と繰り返すので、私一人の頭の中で小さく葛藤しながら、たった1年前なのに「あれ、この路線で合ってるよね?」と記憶の曖昧な自分にイライラしながら、何とか同じ駅にたどり着くことが出来た。
しかし私の記憶力の問題だけではなく、明らかに雰囲気も見た目も変わっていた。駅の高架線工事は終了していて、私の自宅周辺の駅より整備が行き届いてると思ったほどだ。人影のなかった駅前には、今ではタクシーが5~6台待機していて、おじさん達がおしゃべりをしている。その中の一人がちらちら私へ視線を向けてくるので、一瞬不快に思ったが「あ、そうか、タクシー客かどうかが気になるのか」と気が付くも、もちろん乗る気はないので、とっとと1年前と同じルートを歩き始めた。信号もしっかり点いていたし汚泥の小山はどこにもない。きっと家は建て替えられていると思い込んでいたが、1年前に見た家並みとほとんど変わっていなかった。
「普通の街になっている」という安心感が私の注意力・記憶力を減退させたのかもしれない。電話ボックスやリサイクルショップや複合レジャー施設がどんな風に変化したのか変化無しだったのか、どうやっても思い出せない(電話ボックスは全撤去のはずだが)。だが幹線道路にありがちな回転寿司や大手自動車販売店などがあちこちに出現しており、明らかに日常的に経済活動が行われていた。そして、そんな人工の建築物をものともせずにアスファルトやコンクリの隙間からは雑草が生い茂っていた。去年、雑草を見なかったのは草むしり(環境整備)が行き届いていたのではない。津波による塩害で植物が根を張れなかったのだ。
去年と同じ歩道橋に上がってみた。1年前は5分以上眺めていても、やっと車が1台通るかどうかだった幹線道路は、何百台もの自動車が淀みなく流れる河となっていた。
あの「荒廃した風景」はどうなったか。こちらも少々記憶が曖昧だが、たしか、何やらよく分からない薄黄色の物体は全て消え失せ、むき出しの地面が広がっているだけだったが、反対側の鋼板壁も鉄くずも全て無くなり、これから道路敷設が計画されているような感じだった。印象的だったのは、ほんの1年前は荒んだ場所としか表現できなかったのに、たった1年で、中学生くらいの若い女の子が3人連れ立ってミニスカートやハーフパンツ姿で歩ける道に変貌していた事だ。
そして駅へ戻る生活道路周辺の住宅は建て替えが目立っていたような気がする。
高架線下の自衛隊テントは当然一張りもなく、白い打ちっぱなしのコンクリートがあるだけだった。
やはり「何もしないより行動した方が後悔は少ない」という事を改めて実感する。そして何であれ「自分の目で変化を見届ける」が‘自分を知る’助けになる。そんな気がする。
もしかすると東北出身・在住の方には、不快に感じられる表現もあったかもしれない。
私が、この文章を書いた理由は幾つかあるが最も大きいのは、東京とその周辺に住む人間の無知と無神経と傲慢さに対する怒りだ。もちろん、その中には私自身に対する怒りも含まれているが、私が何に怒ろうが、どんな文章を書こうが、関係なく「経験者」と「未経験者」の間の溝は、決して埋まる事はない。
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