拘り     〚第3綴〛

私にとって一番古く且つ鮮明な記憶は小学五年のイジメられた時の物だ。小学四年生以前の記憶はほんのわずかで薄らとしたモノしかない。だが、その数少ない記憶には「言葉」が介在している割合が人より多いような気がする。

物心つく以前だと思うが、私には奇妙な癖があった。人の話した言葉を聞くと、そっくりそのまま自分でも繰り返してしまうのだ。近所の子と遊んでいる時などに一人が「だからさっきそう言ったじゃん?」などと言うのが聞こえたりすると、私も自分の口の中で(ダカラサッキソウ言ッタジャン?)と独り言のようにもごもごと周りに聞こえるかどうかぐらいの声量でオウム返しをするのである。相手をからかうとか怒らせよう等の意図は全くない。
自分でもよく分からないが、おそらく人から聞いた言葉を繰り返すことで、その人がどんな感情の時にどんな言葉を使ってどんな口調で話すのかを確認せずにはいられない、という「拘り」があったのではないかと思っている。
しかしこんな癖を繰り返していれば、当然周囲の人間は胡散臭く思って、コイツ大丈夫か?みたいな視線を向けてくるし、その内イジメの種にされるようになってオウム返しはしなくなったのだろうが、この年齢になっても未だに頭の中では全く同じ癖を繰り返している事に、こうして今、この文章を打ち込みながら、ようやく気が付いた。これが'三つ子の魂百まで'という事なのだろう。

また、ある程度大人になってからも、未だに自分でも理解できずにいる、言葉に関する体験がある。
高校を卒業して働き始めた頃、私は、ある時代劇にはまり、毎週テレビで観るのを楽しみにしていた。
その日の放送は、その後十年以上の長期に渡る連続シリーズの中でも、かなり見ごたえのある内容ではあったが、その中のたった一つの'せりふ'に、どうしても引っかかる何かを感じて、私は考え込んでしまった。
場面としては、時代劇では良くある設定で、主人公が信頼している手下の一人が悪党どもに捕まってしまう。手下といっても二十年も前からの顔なじみの女であり、「身分違いの感情」を持たれている事にも主人公はもちろん気付いている。しかし頼みの綱の応援がなかなか来ないので主人公は単身で敵地に乗り込むしかない。手下の女は過酷な屈辱を受けてはいたが助けに来た主人公には気丈さを見せる。だが気を緩める間もなく主人公は大勢の悪党どもと斬り合わねばならない。斬り合いの直前、悪党どもの一人が問う「お前、あの女の何だ?」主人公が言う「…貴様ら外道の刀で、あの女の”いろ”が斬れるか」

私が引っかかったのは、この“いろ”という言葉だ。このたった二文字に、なぜか強い違和感があり気になって仕方がないのである。こんな事を気に掛けても何の得にもならない所か、ただの時間の無駄だ。そう分かっているのに、いつの間にか「この“いろ”じゃない…」と繰り返し考えてしまう。
とはいえ気になっていたのは、せいぜい三日程度だったはずだ。この時代劇の原作者は江戸の文化・歴史に精通していることで非常に有名な方だったが、私がこの時代劇を観た三十数年前でさえ、既に江戸っ子・江戸弁は絶滅寸前などと言われていた。今後どう転んでも江戸弁で“いろ”という言葉を聴く機会は二度と来ない。つまりこの違和感の原因を確認する機会は、将来的に、確実に、あり得ないのだ。そう頭の中で納得してしまうと、その後は、この違和感についても、この “いろ”という言葉についても、完全に忘れてしまっていた。


そして、それから三十年以上が経った2022年1月10日、私はこの“いろ”の言葉と再会するわけだが、これまでの経緯をご存じでない方の為に説明しておく。
私は長年ラジオを聴く習慣があり、中でも毎週日曜午前10時放送の「日曜○○」は最も長く聴き続けていた番組だ(過去形)。途中、生活環境の変化や病気の悪化などもあって全く思い出せない部分もあるが2020年辺りから、また落ち着いてラジオを聴けるようになり、ここ数年は、この「日曜○○」出演者として毎年年明け第一回目の放送は必ず決まったゲストである事、またその固定ゲストの方が私の言葉に関する好奇心や知識欲をかなり的確に満たしてくれる事に気付いてからは、年明け最初の日曜日を楽しみに待つようになった。
しかし病をおして働き始めてからは他人と関わる時間を少しでも減らす為、基本的に土曜・日曜は出勤するようにしていた。つまり2022年1月9日の「日曜○○」は生放送では聴くことができなかったので、休日としていた翌日の月曜日にラジコのタイムフリー機能で聴いたのだが、ゲストコーナーが始まって、数分と経たない内に私は固まってしまった。
ゲストの方が飼っている犬の話題に続けて、司会進行役の男性アナウンサーに、こう言ったのだ。「あなたね、ほんとにね、“いろ”じゃあるまいし、アタシが言った事そんなに覚えてる人…、親でも覚えてない…。世間の皆さん、本当にこの人とアタシ、ただならぬ仲なんですよ。ホントは」
三十年以上一度も思い出さなかったのに、いつも通りの習慣で、いつもの番組を何気なく聴いていただけなのに、この瞬間「…あっ、コレだ。コレが私の聴きたかった“いろ”だ」ほんの一瞬、頭の中が三十数年前の小娘時代に戻った感覚があった。その後は…、よく覚えていないがビックリしすぎたというか、気が動転してしまったというか、番組を聴くのをやめてしまったような気がする。聴いていても全く頭に入るはずがないのだ。うつ病を持っている間はただでさえ集中力はガタ減りする。というか病気でなくとも同じく惚けた状態になっていただろう。他人には絶対に分からない、自分だけの小さな「拘り」が三十年越しで解決する瞬間…。私自身でさえ、何に感動しているのかは、よく分かってはいない。でもこれは私にとって、とても大切な瞬間である事だけは間違いなかった。

どれくらい時間が経ったろうか、少し気分が落ち着いてくると、「とにかく録音しよう」それしか考えられなかった。何しろ'うつ'のせいで集中力・注意力・記憶力がまともに働いてくれないのだ。録音しなければ、どうしようもない。その上タイムフリーで使える時間は3時間しかない。ゲストの方が出ている三十数分を間違いなく録音することに集中して、それ以外の約1時間20分は捨てる事にした。番組すべてを一通り聞いている余裕など1mmもない。うつ病を持っていると、健常者には考えられないような、とんでもなく、つまらない失敗をする事が普通にあり得るのだ。それまでも10年以上に渡って何度も繰り返してきた、たくさんの失敗・後悔の数の多さを思い出すと、これぐらい慎重にやらないと、また後悔する羽目になるのは充分すぎるほど分かっていた。

とりあえず録音は無事にできたが、落ち着いてまともに聴けたのは、結局、数日後だったと思う。
うつ病持ちに限らず、どんなに健康な人でも睡眠に一番必要なのは心身ともにリラックスしている状態だ。怒りや悲しみ等のマイナスの感情はもちろん、期待や喜び等の興奮状態も睡眠には悪影響でしかない。気分が爆上がりすると分かっている録音を聴くなら、翌日・翌々日まで間違いなく寝坊できる条件が整っていないと安心して聴く事は出来ない、と考えたからだ。

その日、夕食や歯磨きを済ませて寝床に入ってから録音を聴いた。
そして私は一生、言葉の奥深さ・言葉の大海からは逃げられないし、離れられない、と確信した。
少なくともゲストの方が口にした“いろ”という言葉には、愛情や信頼関係という言葉ですら軽い・薄っぺらいと思わせるほどの重厚な濃密さを感じさせる“何か”があったし、“ただならぬ仲”という表現にもよくある色恋沙汰とは全く違う印象を受けた。この二人の間には何人(なんぴと)たりとも割って入る事は出来ないということを私は一瞬で理解した。
私が観た時代劇では、“いろ”には「自らの命を賭しても助けるべき相手」という意味が含まれていた。当然だが私の夫は私を命がけで助けに来ることはないと断言できるし、夫が捕われていれば、さっさと殺ってしまえと私は必ず言う(←マジで)。つまり‛夫’という言葉を“いろ”で代用することは出来ない、少なくとも私の場合は。いや、ほとんどの既婚者は自分の配偶者を“いろ”とは呼べないだろう、色んな意味で。
それはつまり、“いろ”という言葉の持つ本質的な意味を理解できる人間がほとんどいない、という事でもある。“いろ”の意味を本当に理解できるのは、“いろ”と互いに呼び合える相手を持つ者だけだ。

録音を聴きながら、上に書いたような“いろ”という言葉に関する様々な考察・情報が濁流となって自分の頭の中に流れ込んでくる感覚があった。そして、この濁流は私の頭の中の’うつ病で出来た堰’を少しづつ壊し始めた。この録音を何度も聴き直すうちに、自分でもよく分からない感動は、あっという間に半減していったが、代わりに言葉や文章に対する執着心のようなモノが急速に膨れ上がってくるのが分かった。
「他人の理解なんてどうでもいい。とにかく書け。一人でも多くの人に読んでもらえ」そう背中を押されているような、どうしても逆らえない何者かに厳命を下されているような感覚があって、嬉しさと腹立たしさが入り交じり、私は寝床の中で叫び出したくなったが、夜中の事でもあり、何とか堪えた。堪えている内に、頭の中は様々な感情・まとまらない思考・雑多な情報でぐちゃぐちゃになり、この混沌をどう静めたらいいのか分からなくなったが、……いつの間にか私は眠っていたらしい。

この日を境に私の中の意識はガラリと変わった。確かに生活費を稼がないと生きていけないが、今の働き方はあくまで通過点だし、今の職場はあまりにもストレスがかかりすぎる。仕事への注力を六割くらいに落として、余った活力はブログを立ち上げるための準備に充てるようにした。この頃のカレンダーを確認していて気付いたが、二月に入ってからは二週間以上、立て続けに仕事を休んでいる。これまでのようにストレスに対して何となく対症療法で済ませるのではなく、ブログ開設の為には、まずこの病気を軽くせねばならず、その為には睡眠時間を増やす以外の方法はない。とりあえず会社からクビにされそうな気配はないと分かっているのだから、生活に支障が出ない範囲でバンバン休んでやろう、という方向に考え方を切り替えられたのが、このタイミングだったのだろう。

そして、これこそがうつ病回復にとって一番の「難関」と言える。どんなに優秀な主治医が正確な情報を与えても、周囲の身内が建設的な意見を繰り返し伝えても、本人の意識が変わらない限り、精神疾患特有の「拘り」を患者本人が捨てない限り、うつ病が回復に向かう事は100%ないのだ。

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   《お知らせ》

ブログ公開から2週間程しか経っていない中、大変恐縮なのですが、記事UP日程を一部変更いたします。
前回、記事UPは「毎月1回」とお知らせしましたが、第4綴と第5綴を早ければ2月中旬頃までに、遅くとも2月末までにUPする事にしました。
これはアフィリエイト登録する為、つまりブログを収益化する手続きには最低でも「5記事」必要との事なので、ハッキリ言って「お金」の為に急遽時期を早めて記事をUPする、という事になります。
しかしながら現在の私の脳力では最低限の品質を保つためには1記事につき2週間から3週間程度の時間が必要でもあります。
つまり第4綴と第5綴に関してはUPする明確な日付をお知らせできませんし、また第6綴に関しても、第5綴UP後、1ヶ月以上(状況により2か月程)の猶予を頂く事になると思います。
急な変更の上、不明瞭なお知らせとなってしまい、大変申し訳ありませんが、何卒ご了承下さい。
   

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